賞の意義
名前
ワケあってACCのデザイン部門に応募しているんだけど、仮にも一般名詞としての “Creativity” を冠するアワードが、「広告主」「商品」のような、広告業界の商習慣を前提にした応募フォームを採っていることに、ほんのりと驕りを感じたりもする 全部「N/A」で埋めちゃるわけだけど…
賞の名前に関して思い出すのは、学生CGコンテスト(現: NYAA)がCGの枠に収まらなくなったので「Campus Genius」と読み替えたこと。賞としての同一性と、名は体を表せているかの両立でそれぞれに苦心しているんだなって思う 
ACC賞はその逆で、名前の一般性に対して、歴史的にも応募フォーム上でも広告賞としての体裁を今に保っている
人の名前、会社名、賞の名前、あるいはイベント名にしたってそうなんだけど、baku89.iconは名前ってのは基本的に識別子でしかないと思っている。ただもし名前に意味を込めるんだとしたら、それはその主体の活動のありようを広すぎず狭すぎず表現するものであることが、ある種の誠実さだと思っている
たかが広告賞なのにCreativityって
けど広告人全体が、われらがクリエイティビティを背負う者という自負、驕りのようなものがあると思っている
「クリエイティブ業界」はほとんど「広告業界」と同義
→ クリエイティブ
TDCグランプリ受賞に際して
東京TDC賞で、『MONO NO AWARE / かむかもしかもにどもかも!(imai remix)』がグランプリを、インタラクティブMV『group_inou / HAPPENING』がTDC賞を頂いた。
グランプリの方は、夏に鈴木 哲生さん、徳井直生さんのご協力を仰ぎながら作ったビデオ。最近のTDCグランプリはどこか捻りが効いているなぁと思っていたのだけど、幸 洋子さんや大西景太さんに次いで映像作家として選んでもらえて驚いている。2月にimaiさん、玉置周啓さんとご飯したとき、初対面の玉置さんを差し置いてimaiさんとカスみたいな水掛け論をしたのが懐かしい。
賞といえばいつもは「作品」が選ばれるので、作ったものが独りでに羽ばたいていくような、どこか人ごとのような感覚があった。だけど今回メールでやり取りしていた事務局長の照沼さんが、東京TDC賞はType Director、つまり仕事そのものというより、その仕事をディレクションした個人やコレクティブに対して授与するものなのだ、と丁寧に強調されていて。今回の選考委員は、特にぼくが応募したカテゴリーに関しては見知った方も少なくないのだけど、今回の短く地味なビデオに至るまでの、ツール開発や日々の実験をまるごと評価してもらえたような、そんな気持ちになった。ちょっと自意識過剰か…。
と同時に、いつまでも業界の日陰でカウンター側を気取っているのではなく、今のぼくの社会的立場、作品の認知度、日々のグダグダ感と周囲の人たちへの頭の上がらなさとは無関係に、客観的に生じてしまっているであろう「エラさ」を、その程度に応じてしゃんと引き受けていくべきなんだろうなと思った。清水幹太さんみたいに、既に権威側であるにもかかわらず、ナードとしての自意識を引きずってクリエイティブ・ペーソスに浸ってる場合じゃねぇと。というか、そういうメッセージとして受け止めました
最近見に行った座談会で、敬愛するアニメーション研究家の土居伸彰さんが仰っていた言葉が強く記憶に残っている。曰く、賞というのはどう転がってもやっぱり権威なんだ。だからこそ、そのエラさを十分褒められつくしているものにではなく、そのままでは埋もれてしまいそうなものにこそ向けるべきだ、と。周囲には、賞に対してシニカルな感情を抱く人も少なくない。一方で、評価経済の「評価」がいいね数や再生回数という形でこれまでになく定量化された今、市井の人からの支持は容易にハック可能になり、資本よろしく「アテンションを元手にさらにアテンションを増やす」正のフィードバックが幅を効かせている。専門知はプロレタリア化し、愚直に手を動かして質感や手法をこねくり回すのは悪手になりつつあるような気さえする。みんながメタゲーマーとして立ち振る舞うほうがオトクなこの状況は、やっぱりいつだってダルい。
願わくば、賞は「評価」より誤魔化しの効かない「プロップス」のようなものを醸成する場であってほしい。良し悪しの価値基準を硬直化させるのではなく、ある種の斥力としてシーンを撹拌したりフックアップする機能を担っていってほしい。もちろんそれは内輪ウケとも紙一重なんだけども。その意味では、TDCは正統なもの、支持されているもの、ウェルメイドなものの外縁に広がる「じゃなさ」をすくい上げていく矜持を感じるし、選ぶ側も選ばれる側も緊張感がある、そんな賞だなぁと思っている。今回の結果は嬉しい反面、胃がキリキリ痛むような、そんな心持ちになった。