個人史
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Masaki Fujihata, «Field-Work@Alsace», 2002
Production still | Photograph: Masaki Fujihata | © Masaki Fujihata
その人の思想、研究、作品と、その人の出自と密接に絡み合っている
体重を乗せること、切実であること
すべてをさらけ出す、パンツを脱ぐ必要はない
系の外側から観察者として何かを記述しようとするのではなく、系を成す一員としてその内側から語ることの面白さ
ツイ消しをされていたが、Graphic Design Reviewの某方「みんな大史を語りたがりすぎ、個人による小史が聞きたい」
大史の例: ホモサピエンス全史、ゴンブリッジ
それは全部に関してそうだし、かといっての人の出自やウェットなお気持ちを論文やステートメントに直接書くのは塩っぱいんだが、「なにが彼(女)にそれを書かせたのか」を知った上でその人の思想を知ると、スーッと体に染み渡ってくる感じがする
少なくともアカデミックライティングの訓練を受けていない、構成論的に世界を体験しているアーティストや作り手として、主観性を引き受けた語りをしたい、聞きたいという欲求
藤幡さんの口癖「人生相談じゃないんだから」
コンブリッジ的な西洋美術史、西洋中心主義に対して彼がアジるのは、ZKMなど海外での生活を通して醸成された彼自身のコンプレックスが深く関わっている(はず)
自己紹介や雑談の場であってもそうしたウェットな出自にフワッと触れることを忌避するのは、それこそ「シンポジウムじゃないんだから」と思ったりもする
なんかのポストで、昔のアートのステートメントは美術史という大きな物語に根ざして書くのが定石だったが、最近はどんどん個人的なものをダダ漏れさせる方向になっとるよね、良くも悪くも、みたいなのを読んだ
横トリとか
『アバンギャルドとキッチュ』が書かれた背景
今でこそグリーンバーグは乗り越えられるべきものとされ、20世紀後半を通してポップアートやThe Post-medium Conditionなど散々当て擦られてきたが、世界がファシズム的なものに傾くなかで、大衆に生理的に受け入れられるようキッチュに対して、アバンギャルドが持つ省察の力みたいなものをちゃんと打ち出したかった。彼なりの時代精神に対する切実さがあった みたいな話を院生かだれかが最近発表してた
これまでの解釈では、この評論はアヴァンギャルドを高級文化、大衆文化を伝級文化とする対立軸において、グリーンバーグがアヴァンギャルドの自律性を擁護しエリート主義的姿勢にあるという見方が主流であった。しかしこの評論はファシズムの台頭期にアヴァンギャルド芸術の危機的状況下で書かれたものであるという点は見過ごされがちである。それゆえ『パーティザン・レヴュー』の当時の誌面の方向性や、ヴァルター・ベンヤミンが1936年に発表した「複製技術時代の芸術作品」における「政治の美学化」の文脈の中でこの評論を再考する必要がある。そこで本発表ではグリーンバーグが同評論で提示している「反省」という美学的概念に着目し、ベンヤミンの「政治の美学化」の論理を見据えつつ、アヴァンギャルドが促す「反省」の機能と、「反省」を要さない即時的な快の享受を可能にするキッチュの性質を検証する。以上の考察を通じて本発表は、この評論を政治的・美学的文脈で捉え直し、さらには現代におけるソーシャルメデイアとポピュリズムの観点からその現代的意義についても考察を加えたい。
彼は東ドイツ出身
ヨーゼフ・ボイスのような「人たらし」が結局みんなを率いちゃうことに対する危機感
人間無しに美学的なものを定義できないか
「人たらし」とか「人とって心地よいこと」が一辺倒に正義とされることへの危機感という意味では、今の状況とすごく通ずるところがあるんですよね。都知事選、大統領選、兵庫県知事選とか
Walter Benjamin - 美学の政治化
未来派
細金卓矢さん
在蘭されていたころ、現代思想の反出生主義特集を親に取り寄せてもらって読んでいたという文脈を踏まえて読む、フィルムアートの記事はスーッと胃に浸透する
最後に、すべての制作者が「歴史に連なりたい」「未来への礎になりたい」という欲求を持っている、またはそれが善いことである、という前提はいささか慎重さに欠けるという指摘をする必要があります。最終的ににそうした欲求を持たない、あるいは「連なりたくないもの」はアーカイブを拒絶しながら退場し、文化の構成員ではなくなるでしょう。しかし、彼らは意思に反して蒸留されます。そして蒸留されてなおも、薄弱な繁殖欲求と権威からの逃避欲求が独特のトーンを帯びて自身に組み込まれているという実感があります。この「連なりたくない」という社会的営みと矛盾する願いは「蒸留されて多くを散逸する」という形でのみ部分的に成就可能です。散逸したいという願いに対しての散逸を押し止めるあらゆるアプローチは敵対行為になってしまいますが、この価値観が確かに存在することそのものを伝えるのが、我々が辛うじて出来る向き合い方であると考えています。 コントロールについて2 なんで「いささか慎重さに欠けるという指摘をする必要があります」?
「なんかこう、違うような気がするんです」で良い気がするんです
その後のXでの🧵
baku89.icon: 「連なりたさ」ついて思うのは、現代美術やアカデミアのような、「良さ」の歴史化にまつわる(その簒奪や脱構築も含めた)力学については語られ尽くしている気もしていて、「良くなさ」も含めた集合的記憶のようなものがどうシーンに作用するかが気になっている。あと、最終的に細金さん自身や彼の作品を、これまでの語られたことのなかでどこに位置づけるかがこの連載のクライマックスになるのかなと(期待しています)
hsgn: シーンをつまらなくした作品 という語られ方はあまりしないな〜ということは書きたいと思っています。(なぜなら書きづらいから。)一方で皆がシーンのために作ってるわけじゃないんだから「影響の与えたくなさ」という価値観をそれ自体が伝搬し辛いという側面も込みで肩入れしたくなってしまう。
baku89.icon: 散逸の下りでも仰られたように、作品、作家単位の個体選択というよりは、遺伝子選択の世界観で話してるつもりでした ただ「クリシェ」なんかを口癖にしてしまうように、置きに行くこと、透明であることの美学に自分はめっぽうナイーブな自覚もあるので、その肩入れについてもいつか読んでみたいです
hsgn: 保身のためにこれ以上は語らないですが、子供を作らないという価値観の話です。
大橋史さん
英語だし、専門的だし
けど『ニューメディアの言語』や『インスタグラムと-』よりも読みやすいのは、ここで彼が語っているSoftware Studiesについての議論が僕にとっても切実な問題だから
彼がモーショングラフィックスを表現主義から連綿と続く実践として歴史化したいのは、あの頃にアニメーション作家やメディアーアティストに囲まれながら独りモーショングラフィックスという、美大の中ではある種宙ぶらりんな表現に携わってきたことへのコンプレックスがあったからじゃないかな
「共感覚性」みたいなものはそうした中で副次的に見出した芯なんですよね、多分 で、そういう想いは言ってって良いと思う。その方が学生の方にとってもより授業が面白くなると思う
baku89.iconは大橋さんとは年齢差があるものの、ほぼ同時代のものに影響を受けてきたから、彼がやらんとしていることの裏側にあるモチベーションにすごく共感する
baku89.iconの年長者イジりの悪例
彼に語って欲しいこと
00年代、美大でモーショングラフィックスを作る疎外感
なぜDavid O'ReillyのAesthetic Coherenceを一時期「After Effectsの標準エフェクトのみを使う」と解釈して実践していたのか
表リファレンスと裏リファレンス
『愛と剽窃』か『あたらしいたましい』か
彼の「美大的」な嗜好からして、#indie_anime やリリックビデオ文化は「好ましい文化」ではあっても個人的な「好み」ではないのではないか
駿さんを褒めるのとか 大橋さんの映像やグラフィック的出自に共通点がある分、腹から駿さんを理解できてるのか気になる
それはbaku89.iconも。demosceneは文化として、技術としてこの上なく尊敬しているが、デモシーン的な美的規範はあまり自分の好みではない
「好ましい」と「好みじゃない」は両立する
好みではないけれど、好ましいとして尊敬している文化やムーブメントってたくさんある
あとは、モーショングラフィックスをしていても美大の中では無視されてきた経験が、「センスエリート」的な目には適わない、そうしたインディーな人たち、ナードな人たちへの共感に繋がるような気もする
🧵
O: 橋本麦の文章で感動してる皆さん、飲みで会うと人の仕事を辛辣な言葉でdisってくるので騙されちゃいけないぞ。
baku89.icon: それ、普通に腹立ったんですけど、ネガティブな気持ちのあらゆる表明をdisと括るなら、元の記事はすでにdisに塗れてますよ むしろ「クソダサい」よりもよほど辛辣に内側から人を傷つけてる気がします。ゆえに分厚い技術文章でゾーニングしたつもりなのですが。
O: そういうつもりで言ったわけではないし、disを内包してるとは思ってはなかった。説得力のあるテキストを書く人ですら人の仕事を揶揄することもあるということを言及しただけなので。
baku89.icon: だから元の記事はその意味で初めから揶揄のつもりで書いてるんです。根底にあるお気持ちは悪意というより淋しさですが。むしろ説得力のある揶揄のほうがたちが悪いし、クリエイティブな人に申し訳ないことをしたと思ってます。それなりに本心で
O: わたしは冒頭の技術文章は斜め読みして麦くんの言う揶揄を読み解けてなかったということがわかった。説得力というのも後半の文化史的な話なのであって、麦くんの文章を「説得力のある揶揄」とは思ってないです。
baku89.icon: それは大橋さんと出会った頃に比べて、良くも悪くも揶揄の技術が上がってしまったからかもしれません。大橋さんの認知を上手くすり抜けるコノテーションを仕込めたんだと思います。というのを周りの反応を通して自覚しました。
後で田中大裕さんから、THoAの後にご飯をした時に、「ああいうアイドルとかMVとかってどういう気持ちでやっているんですか? 何かを憑依させた状態で作るもんなんですか?」と何気なく聞いたことに実は傷ついておられたらしい。人の作品、というか、大橋さん自身のお仕事を辛辣な言葉でディスってたと受け取られていた
https://www.youtube.com/watch?v=BEccqfqNi1o
在野の作り手としてできる歴史研究
どのみち僕ら作り手は「愚者」なんだから
愚者としてできることは、ゴッホと一緒。『農夫の靴』がハイデガーに『芸術作品の根源』を書かせた
Masaki: すでに書かれたものがないと、こういった場合、われわれには研究のしようがないんです。一次資料にあたるという研究じゃないので、。むしろ一次資料を作っている人たちに刺激を与えるのが仕事かな。まあ、そちら側にまわって一生かけて仕事したい人がここから出てくることも望んでいます。
教養コンプレックス
カッコよく、賢そうに言わんくちゃいかん、みたいな切迫感がなんかある気がする
baku89.iconも2024年に入って人文系の人と交流して、あとは美術手帖に寄稿したりしたときに、そうした引け目を初めて感じた
「読書」へのオブセッション
千合さんも
新幹線で寝ずに一冊本読めたとき達成感すごい🚄
頭の悪さと運動神経の悪さを認めることで楽になる
その時の思いつきや、今更知ったことについての驚きを雑に人に話せる
知り合いがいるイベントでも踊れるようになる
あと、平熱であること、感情のスパイクが無いことをカッコいいとする価値観を無くする
理性はお気持ちの奴隷
腹を立てたり、ブチ感動したりする
なんか、ニューラルネットワークがどのような形で記憶を保持するかって話を思い出す
その情報を客観的に表すビット列がそのままSSDみたく書き込まれるんじゃなくて、そのニューラルネットワークにおける独特の内部表現として、すでに保持されている情報に織り込まれていく、溶けていく
何かを学ぶとは、書かれていること、話されたことを頭にコピーするんじゃなくて、そうした知をその人自身の経験してきたこと、感じてきたことに織り込んでいくこと。あるいは、その人の経験知に別の角度から秩序を見出し、絶えず接着したり組み立て直したりを繰り返していく営為?
学ぶために必要なのは、忍耐強い多読じゃなくて、そこに書かれていることがアクチュアルに感じられるような体験をすること
ボブネミミッミ展で「シミュレーショニズム」が腹に落ちる
3DCGとフォトリアリズムに対するムカつきがあるからこそ、media specificityが腹に落ちる
Adobeに対するムカつきが、マノヴィッチを理解しやすいものにする
読みながら白昼夢に耽る感じ
っていうのを自然にやれてきたのは今まで。学びたいことが高度になっていくにつれて、その学びを腹から消化するためために必要な、経験の豊かさへの要求も高くなる