モノづくりへの憧憬
最近すごく感じる
表現への憧れ
むしろ専門知に根ざした営為のうち、その成果が「作品」になることのほうが稀
ツール開発は自分にとって作品ではないし、むしろマーケットとしての現代美術だとか広告業以上に憧れと尊敬を感じているドメインはたくさんあるので。研究とかエンジニアリングとか。
baku89.iconの父、化粧品会社の総合職から早期退職して数百万の機材を購入、サンドブラスト工房を始めた
応援したいと思っているし、Webやチラシといったデザイン周りを手伝っている
けど母から、baku89.iconが「モノづくり」を仕事にしていることへのちょっとした羨ましさが無くも無かったっていう話を伝え聞いた
そうなんだ…というかそういう風に視えていたんだ…
モノづくりを日中の活動の中心に据えることへの憧れ
表現への憧れ
制作を仕事にする人のうち、別に表現( = expression; 己の内なるものを外に表す)をやっている人はわりと少数だと思う。少なくとも「表現主義」(expressionism)なんてものが「主義」としてまかり通るくらいに、制作は「表現活動」を必ずしも含意しない
絵を書くことはすべからく「表現」なのでは?と、baku89.iconもこの言葉を知ったときには違和感を感じた。けど、義務教育で図工や美術を習い、ダリのちょび髭や岡本太郎、ジミー大西をTVで観ることで育まれる「アーティスト観」は、ごくごく一部の時代や地域のものでしかない
doxasさんが写真について触れるときも、「表現」みたいなものについて、ご普段のエンジニアリングの言葉じゃなく、ポエジーさを込めて熱っぽく語られる
僕の知る職業写真家って、もう少しこう、ふわふわとした「表現」ではなく、何が世の中ないしクライアントに求められ、どういう風に打ち返すかっていう、「仕事」として地に足ついた形で写真というメディアと向き合われているという印象がある
デザインやアートもそう。前者はむしろ「デザイン経営/思考」のように、過剰にプラグマティックになっている動きすらあるし、後者だって、アート業界にいる人のアクチュアルな実感は村上隆の「芸術起業家」的なマーケット観に近いと思う。メディアアートやインデペンデントアニメーションのような、助成金やグラントによってある程度支えられている世界もまた、「サラリーマン」以上にシビアな世界。小劇場やコンテンポラリーダンスは言わずもがな。だけど業界外からそうしたものに憧れを抱いている人のデザインやアート観って、ちょっと浮世離れしているというか、美化されている気がする。生活や経済活動に接地していないような。それもまた安直な類型化なのだろうけど。「そんなベタな見方しとんの...?」って思わされることが最近は多い
けどそれはbaku89.iconの「研究者」や「ハッカー」に対する過剰な美化とも通ずるのかもしれない
つまりは皆、労働疎外に苦しんでいる
baku89.iconはUXデザインにおける、グラフィックそのもののDirect Manipulationには特に紐づかない導線設計といった活動を、別に「デザイン」だと思っていない。(Bret Victor 『Magic Ink』、すべてのscreen-based designは本質的に「グラフィックデザイン」である)いわんやbaku89.iconをや。自分をデザイナーだとも、大文字のArtistだとも思ってない だけど、自分のやっている仕事を、何かデザイン的なるもの、クリエイティブなもの、創作、モノづくりに隣接するものだとみなすことで、その人自身の仕事の本質的なブルシット・ジョブ性に蓋をすることができるのであれば、それもまた「デザイン」という言葉の力なんじゃないかと思う。だから皆デザイン経営だのUXデザインだのコンセプトデザインだのデザインエンジニアリングだの、好きに言えばいいと思う。
デザイン経営的なるものが実質的に意味するのは、狭義の「デザイン」への感覚が鋭い奴が裁量を持つことで、白物家電もホテルも、なんかちゃんオシャレに出来て、こう、いい感じに売れんじゃんって話だと思ってる。デザイナーが持っている思考術だの、デザインを活かしたイノヴェーションだのは畢竟どうでも良くて、「ちゃんとデザインに気を配ると調子良いよね」っていうある界隈では自明な心がけを、マーケッターや経営者、行政関係者、技術者のような人達が腹落ちする言葉で仰々しく体系化したのが、DTやデザイン経営がせいぜい意味するものだと思ってる
その意味で、Design Pannismには自分は肯定的。ハッカーという言葉がミーム汚染され、プロパーな意味でのそれが「ホワイトハッカー」に移行したように、「デザイン」が歴史的に意味してきたものは既に「グラフィックデザイン」「プロダクトデザイン」といった、ドメイン固有な言葉に置き換わっている。 この手の議論で重要なのは「その人が何を『デザイン』と定義づけるか」から透けて見える各々のデザイン観であって、定義そのものは畢竟どうでも良い
だからデザインの定義論そのものをちゃんとのしたいのであれば、「デザインとは何か?」ではなく、「何を『デザイン』ということにしてしまえば、『デザイン』というカテゴリは世界を僕らにとって有用な形で分節するか?」にフォーカスすべきだと思っている
歴史的な連続性、言語の恣意性
Architectは伝統的に建築家を意味し、作家は日本語で伝統的に物書きを意味してきた。言葉の恣意性と連続性を重んじることは、言葉が時代を超えて近しいカテゴリを意味するという点で、言葉を有用なものにする
語源から言ってしまえばArchitectureはただ「構造」だし、「作」は文に限らなくていいわけだし
グルーって言葉はカテゴリとして有用ではないよね
etymologyから辿ることのナンセンスさ。「人という字は支え合って出来ている」くらいのノリで受け止めている。そうした語源学は、「これからこの言葉をどう定義づけるか」においてはさして役に立たない。「その言葉がそういう語源、そういう翻訳を辿ってきた」という事実から、これまでの社会でどうその概念が受容されてきたかというimplicationを得ることができる以上ものではない
「作家」っていう線引きにも似たようなのを感じる
清水幹太さんも、そうした「作家性」みたいなものに対してすごく線引きをしている けど作家性も、その人の中からピュアにむくむくと湧き上がってくるものというよりは、そうしたわかりやすいトーンを自分に付与することで、仕事として請ける際の再現性を高めることができるっていう実利的な側面もあるのよね
自分が映像作家って自称しているのは、ひとえに「映像作家100人」に影響を受けてきたし、そうした編纂に関わられてきた人にリスペクトを表したいからっていう本当にそれだけ
映像ディレクターっていうには監督業が苦手で、videographerというと英語圏だともう少し企業VPやENG的なものを想像されるし、motion designerっていうには狭義のモーショングラフィックスをあまりしてないし、animatorっていうほど手技に根ざしてはいない、ただの消去法
けど、本質的に「やりたいことを好き勝手にやる作家」かっていわれると、否定はできない。だけどその中心は「オレが何を表現したいか」じゃなくて、「その表現のもつパラメーター空間のうち、どういうわけかスカスカなところに点を打って、世の中の表現の分布をより稠密にしたい」みたいな感覚に近い。だからむしろある種のニッチ研究やdomain-specificなエンジニアリングの、下位互換として自分の映像制作を捉えている節がある
だけど、baku89.iconのそうしたスタンスがある種のある種のわがままさ、気ままさとして受け止められるのも理解できる。そして、そうした考え方を「作家」的な態度として切り離すことで、「自分からやりたいことがあるというよりも、いい球を打ち返したい」という心性にプロフェッショナリズムを宿すことが出来るなら、そうした人達のためには喜んで「作家様」を引き受けたい