メタ・コンプレックス
「コンプレックスを抱えて生きている」というコンプレックス
コンプレックスそのものへの見下し以上に、ふーん、コンプレックスなんてものを抱えて生きているんだね、という蔑みの方がダメージが大きい
コンプレックスを克服したと自認する人からの蔑み(まだ○○で消耗しているの?)は、むしろそうした蔑みを明示的に投げかけるくらいに解脱途中であることの証左だし、むしろ仲間意識が生まれる
その種類のコンプレックスと無関係な人にとっては、そうしたコンプレックスが芽生える機序そのものが不可解
Tezzo Suzuki氏の蔑みは基本的にそうした立場を偽装しているから、ダメージとしては痛気持ちいいレベルで踏みとどまれる 機序そのものへの理解を言葉の節々に感じるゆえに、「仲間」側に感じる
コンプレックスそのものは時間経過、環境の変化とともに風化して、どうでも良くなる
そして「コンプレックスを抱えている風」の行動原理、性格だけが残される
「『コンプレックスを抱えて生きている』というコンプレックス」という、実体のない自己言及的コンプレックスだけがふんわりと頭の片隅に常駐している