ダダ漏れ
このCosenseを庭いじりする上での基本的な方針。
いわんくて良いことを言う。書かんくていいことを書く。
思い出す: けつだんポトフ - ダダ漏れ女子(今なにされてるのかな)
インターネットに思念を放流することへのハードルが年々高まっている
ソーシャルメディアを極端に目の敵にするか、その逆かの両極端
baku89.iconがおそらくは清水さんを傷つけた言葉の大半は、彼に面と向かって言っている。インターネット関係ない
SNS上の露悪的なしぐさ(文脈を踏まえず「クソダサい」などとRPする仕草など)については、清水さん御本人も大概だと思う。baku89.iconは反射的にではなく、ある程度こうした場などでまとめたうえで書き散らかしている。「ミームを憎んで人を憎まず」をそれなりに徹底しているつもり
SNS全拒否とSNS全肯定の間にある「ほどよい距離を保ちながら、都合よく利用する」関係性
確か軽井沢的な場所に住まれている takram 緒方さんもそんなことを「地方と都市」に喩えて語られていた
鍵付きの部室にしない。衝立(ついたて)に留める
Information wants to be free. Stewart Brant (the founder of “Whole Eearth Catalog”)
質のいい情報や、ある種の文化資本に浴するには、その場(東京、業界、シーン)にいること、その人と直接知り合っていること、ペイウォール(美大の学費)を乗り越えることが必要とされるつらさ
そうした環境を当たり前のものとして享受できている人ほど、そのハードルをハードルとして認識していない。だから、「本当に面白い情報に触れるにはリアルで会うしかない」とかのたまってしまう。それはそうなんだけど、どの程度「しかない」ことにするかは、僕らの振る舞いいかんでそれなりにコントロール可能であることを無視している。
baku89.iconは2000-10年代の、プラットフォームに寡占されきっていなかった頃のインターネットにおける色んなダダ漏れに救われてきた。旭川にいながらにして「ボストーク界隈」の空気感を感じることができた。
公開されている情報に基づく思索だけではなく、人との食事、DMでのやり取り、プライベートな雑談のなかで考えたことについても、許されるか許されないかのギリギリのところ(多分許されないものもそれなりにある)でダダ漏れさせている。
chatgpt.icon: 気になった点としては、このスタイル自体が、いずれ受け取る相手や文脈を誤読・断絶させるリスクを伴うということ。自覚しているとは思うけど、そうした衝突も含めて文化資本を拡散するというスタンスだと割り切るなら、それもひとつの選択肢だと思う。
「インターネットへの書き込みはスクランブル交差点で叫ぶのと同じ」というクリシェがあるが、それは物事を単純化しすぎていると思う。
インターネットと一括りにいっても、SNSのようなパブリックなメディアから、個人のホームページのリンクの奥まったところにあるコンテンツまで、その人通りの賑わいにはグラデーションがある。最近のソーシャルメディア/インターネット論は、そうした複雑さを度外視しているような気がする。プラットフォームがメタクソ化していることは承知の上で、半公共的な場としてのインターネットに自分の思念をダダ漏れさせていくのは、文化資本の水平伝播へのちょっとした寄与なんじゃないかって思っている。何より自分の思索の役に立つ 渋谷は物理的にメタクソ化している街だが、それでもモノ、人、交通の要衝としての利便性を前に、完全には縁を切れないし、切る必要もない。時たまいいように使う、くらいの距離感を保つ。いわんやインターネットをや。 ある程度baku89.iconに興味を持ってくれているような人だけが辿り着けるような、細まった私道に、自分の今考えていることをそっと置いておく。炎上する可能性も、快く思われない可能性もあるけど。Discordのプライベートサーバーのように、鍵付きの部室にはしない。すこし心もとない衝立(ついたて)を設けるくらいに留めておく。
まとまっていない思考を吐き出すのは時に恥ずかしい。できることなら秘密裏にいろんなことを調べ上げて、いっちょ前に考えを練り上げてから、あたかも昔から温めていたアイディアかのように開陳したい。だけど、「観られているかもしれない」「稚拙だと思われているかもしれない」可能性を承知で思念をだだ漏れさせ、時にまっとうなご指摘を喰らいながらも弁証法的に考えを深めていくほうが、実はずっと近道だったりする。ア〜ティストとしては、そうしたダダ漏れ性は脱神秘的に映るし、ダサいんだけど、こうした内容を公開することは、そうした振る舞いいかんでイケてる度を見定めるような人へのろ過装置としても機能する。
「残す」ことと自意識
「作品を残すこと」「自分の考えをある種のデジタルタトゥーとしてインターネット上に刻むこと」への執着は、得てして自意識の強さとして捉えられがち。だけどbaku89.iconの見立ては逆。教職に就く、会社を興して後進を育てる、あるいは実子を残すことに比べると、作品や考えをミームとして残すことは、むしろ我が薄いように感じられる。inheritingというよりspawing。胎生、卵生に対して、種子や花粉を当てもなく散布する感覚。師弟制度が一対一、実子が2対1、教職が一対多に対して、ミームを残すことは多対多の関係。
中村勇吾さんからすりゃ、そりゃ自分の2000年代前半の作品はむしろ残ってない方が良い。そのほうが神格化されたまま、カッコいいままで終われるから。 「残すこと」に関する主語が、作品の制作者自身になっているところに、そんなに自分が可愛いか…って内心思ってしまう。はなからあなたの都合を聞いているわけじゃないので。
映像作家100人に対する、業界内部の人からの揶揄についても思う。別にあなたのために作ってる訳ではないので…。
アカデミアにおける ”archival venue” の考え方。良いものだから残すべき、あるいはその逆でもなく、それが「残すべき価値があるものかどうか」という判断は、同時代の研究者にできるものではないという不可知論主義、謙虚さが前提にある。いわんや論文の執筆者当人をや。それが肯定的でも批判的であっても、誰にでも引用でき、そしてそれが反証可能であることを保証するために、査読の通った論文にはDOIが割り振られ、 https://dl.acm.org/ に(ACMが続く限り)永劫アーカイブされ続ける。 「出版」もそう。一度ISBNが振られ一度プレスされてしまった出版物は、著者の意思を超えて買い手なり国会図書館に分散保有される。
インターネットは、誰にでも発信は出来るが、その発信した内容を誰もが参照し続けることは保証しない。そのサーバーの管理者の意思いかんでいつでも消せてしまう。プラットフォーム資本主義以前に、WWWという仕組みは、TVやラジオ、新聞、本に比べても、コンテンツのプロバイダに対して過剰にコントロールを明け渡している。必ずしもコンヴィヴィアリみに溢れたメディアというわけではない。 P2Pに対してハイパーテキスト性を付与したもの
つまり当たり前ですがDTP第一世代で上の世代がいないので、自分たちの師匠はマニュアルなんですね(笑)。流派で言えば、三遊亭でも古今亭でもなく、マニュアル亭(笑)。マニュアル亭直宏。うわ、ダサっ(笑)。
DTP、Web業界の特定の師匠がいないこと。健忘性、スキゾ的感性。時代精神や環境が師匠。
が、逆に後の世代に対するアクションとなると、どういうわけか師弟制度に逆戻りする。社員、ゼミ生、直接の知り合いといったごく少数の人達への「継承」をそれぞれが秘密裏にしている。
私は誰にも教わらなかったから、誰にも教えないで消えていくぜ。って人、意外といない