「カメラの脱構築」とSigma BF
このDevlogでは、制作そのものの過程だけじゃなくて
僕はこの数年のコマ撮りにSigma fpを愛用しています。
リグが作りやすいんですね。
最近発表された
fpの方針がずっと進化していくものかと思っていたのですが、考えてみればdpの頃から、Sigmaのカメラのコンセプトは一代限りだったんじゃないか。そして3DPアクセサリなどの拡張性に魅力を見出していた立場としては、foxfotoさんが書かれていたこともとてもよくわかる。
僕の周りのfpユーザーは何故かUI/UXデザイナーが最多なんだけど、市場ベースとしてそういう方々が多く、かつそうしたデザイナーにとっての「デザインの良さ」とは、端的にある種のパターナリズム(ユーザーは何が本当に必要かを知らない、ユーザーを混乱させてはならない)とモダニズムに偏っていると感じているので、今代のカメラはそうしたデザイン観に振り切ったんだなぁというのが自分の見立てだ。Sigmaにとってはf(フォルティッシモ)とp(ピアニッシモ)は両立し得なかったんだろう。
ところで、アルミフレームで家具や什器を作るとき、最近は潔く4面溝を使うようになった。溝面は減らした方が見栄えはいいんだけど、その面に何かを引っ付けられる可能性を閉ざしてしまうし、溝を隠すには強度にさほど寄与しない余計なアルミが必要になる。
そう考えると “Less is more” って、モダニストが思う以上に恣意的な概念なんだ。カメラの左右にあった1/4ネジを無くすことは、切削加工という面ではlessだけど、材料としてはmoreである。その上拡張性ではlessになる。例えば、今回のBFでも「リッチ」と「カーム」っていう新しいカラーモードが搭載されたことが訴求ポイントの一つになっている。だけど、都度新しいカラーモードを増やす代わりに、ユーザーLUTを設定できるようにしたらどうだろう。代わりに、これまでの「ティール & オレンジ」といったカラーモードは、あくまでベンダープリセットとして頒布する。実際LUMIXにはそうした機能があるわけで。そうすればユーザーは本当に必要なカラーモードだけをセットすればいいわけだから、操作時の切り替えステップという意味ではlessにもなるし、カラーモードの種類としてはmoreになる。
デザイナーもユーザーも、その多くがモジュラリティとミニマリズムとを勘違いしている。前者はモジュールそれぞれを見ると単機能的で、lessなんだけど、それを自在に組み合わせることで掛け算式に豊かな使い方ができるようになる。ミニマリズムは結局のところブルジョア趣味的な装飾過多への反発と工業的合理性から要請されたものであって、そこにいくつかの美学的理論がうまくがひっついて正当化されたものでしかない。機能としてのミニマリズムは、やっぱり出来ることもミニマルなんだ。
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よくしのびよる多機能主義を揶揄するミームとして、こんなスイスアーミーナイフがあげつらわれたりするんだけど、このナイフの欠点は、収納性というただ一点のためにすべてのツールを見えないネジで串刺しにしていることだ。もしツールをバラバラにして組み合わせられたり、さほど使わないツールを外しておくことができたら、コンパクト性と、その使い手にとっての機能の不足なさは両立する。 。「ごちゃつき」は多機能主義そのものに内在する性質ものじゃなくて、機能の提示の仕方の失敗でしかない。
加湿器や炊飯器のような小型白物家電も、Wi-Fiモジュールとまでは言わないから、赤外線
もはや
畢竟、Unix哲学ってそういうことだと思っていて。Unixは使い手の知性を信頼する。Unixは使い手が何をしたいかを自覚していると信じているし、 一つのソリッドな塊として提供するんじゃなくて、
「写真を撮る」
そして道具が使い手や使途に合わせた分化能を持つ。だけど表層的なミニマリズムは、その見てくれのスッキリさのために、機能を組み合わせるための機能 ー それはUnixでいうパイプ、カメラでいう1/4ネジとコールドシュー、アルミフレームでいうT溝にあたるもの ー をも削ぎ落としてしまう。
研究者で随一のfpパワーユーザーのTakumaさんが要望として挙げられている「AirDropでの転送機能」もまた、ソフトウェアとしての1/4インチネジなのかもしれません。(実は有志によるオープンソース実装があったりする: OpenDrop) ぼくが何度もSigmaのサポート窓口に問い合わせていたテザー撮影用のSDKのバグ修正もまた、ソフトウェアによるリグを組むための方策だった。ソフトウェア上のAPIであれば、コネクタ類と違ってどんだけ増やしてもみてみれは見た目はゴチャつきませんし。 最近僕が考えているのは、道具のデザイン言語には2種類あって然るべきだろうということです。
ぼくの浅い理解だと、HCIにおけるユーザーはnovice(初心者)とexpert(熟練者)を区分するのが一般的なのですが、ぼくとしては、道具の性質をgoal-oriented(目的志向)とexploratory(探索的)の軸で考えるのもアリなんじゃないかと思っています。前者においては、ユーザーにとって本当に大事なのは目的そのものなのだから、ユーザーの気を散らさないために道具は透明化する必要がある。いかにも「デザイン」っぽい感じがしますよね。一方でこの考えを敷衍すると、ユーザーが「何が目的なのか」を道具に対して明示する手間もまた、目的そのものから気を散らすインタラクションといえるのではないでしょうか。したがってベンダーは、ユーザーが何をどういう風に成し遂げたいかについて、先んじて仮定を立てる必要がある。これは逆説的なことに、道具にとってのユーザーを透明化するとも言えます。それぞれ違う動機を持って道具にふれる人々の差異を、「ユーザー」というのっぺらぼうのペルソナに画一化してしまう。