身体的な思考
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生きかたを問い直さないような理論には関心が持てない
頭で考えるというのは、一回記号化したものを組み合わせていくことだと思うんですけど、記号ありきで考えてしまうと、どうしても楽しくない思考になっていくのかもしれません。身体からまだコード化されていない情報を受け取って材料にせずに、頭だけで考えてしまうと、妄想的になっていくんだと思います。とくに手は自由に動くので、身体のなかでも思考に向いている器官という気がします。 手を使って試行錯誤していても、そもそも人間は生物として構造化されているので、分節機能が働くんだと思います。伊藤さんがされているのは、完全に混沌としたものを混沌としたままかき回しているわけではなく、人間の身体という分節構造で対象を構造化していく作業だから、そのまま思考と言えるのかなと感じました。 触覚的なカテゴライズされていない”生”の知覚情報を 考えることに集中するのではなく、ただ生活することに意識を向けていながら、考える。考えることを通して考えるのではなく、生活することを通して考える。そのような思考、立ち止まって集中するのではなく、動きに伴走する思考のスタイルを習得する。生活することと思考することを切り分けないということである。本を読むのも、家事をするのも、会社で働くのも同じように捉え、それに伴走すること、セッションすることが即ち思考である、というスタイルの思考。生活し“ながら”考える、ということではない。逆である。家事をするとき、家事をすること、その姿そのものに“なってしまう”。そうなり切れるように身体、心、魂を制御することが、つまり思考するということである。
言葉は、
1.稚拙な言葉…独自の骨格がない、誰かの受け売り、追従
2.厳密な言葉…独自の骨格がある、言葉の意味のみで構築され、自己完結している、
3.達意の言葉…独自の骨格がある、行間やリズム、スタイルによって、相手に開かれている、
の三段階でより高度になっていく。
厳密な言葉は、アカデミシャン、研究者の言葉だ。達意の言葉は、宗教者、文学者の言葉である。ネットも含む世間という場で交わされるのは、そのほとんどが稚拙な言葉なのだが、高次の世間知を持つ人は、時に達意の言葉をものにしている