質問は、二台目の掃除機を買いにいくつもりでしろ
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「質問は、二台目の掃除機を買いにいくつもりでしろ」
「つまりだな、掃除機を買いにいくとするだろう。電気屋の店員さんに、ただ「掃除機欲しいんですけど」と言ったらどんな掃除機が出てくる?」
「え。えーと。セール中の掃除機とかでしょうか」
「まあ近い。答えは、「相手が売りたい掃除機」が出てくる。当たり前だけど、ただ「掃除機」とだけ言うと、相手に判断基準を全部丸投げにしているわけだから。ただの店の都合で、全然吸い込めない上にすぐ充電が切れて、電源を切ったとたんに吸い込んだものがぽろぽろ落ちてくる、愚にもつかないコードレス掃除機とか買わされるわけだ」
「コードレス掃除機になにか恨みでもあるんですか」
「けれど、ここで自分の中に「一台目の掃除機」という基準があったらどうなるか。その掃除機を使って感じた経緯、不満点、改善したい部分とか当然あるだろう。吸引力が弱いのか?重いのか?音がうるさいのか?紙パックが高いのか?「ここは良かったから二台目でも継続させたい」ってところもあるかも知れない。吸引力には不満はないんだけどちょっと高くてもいいからもうちょっと軽いのはないか、とか。そうすれば、電気屋の店員さんも、ちゃんとこっちのニーズに合わせて真剣に答えてくれるだろう?」
「……なるほど」
「まあ、電気屋だったら、親切な店員ならそういう一台目の不満点をインタビューしてくれるかも知れないが、研究者はそんなことは聞かない。「一台目」の情報がなければ、この相手に答える意味はないと考えるか、あるいは自分が話したいことだけ話す。だから絶対に、「自分は一台目の掃除機で何を試みて、何が出来て、何が出来なかったのか」を相手に伝えないといけない」
つまり、S先生の表現する「一台目の掃除機」というのは、自分の思考過程、「自分はその問題に対して何を試みて、それがどのように失敗したのか」でした。あるいは、「どこまでは試みが成功したのか」でした。質問する時はそれを必ずセットでもってこい、というのがS先生の言いたいことだったわけです。
それはイコール、「何が分からないのか」の言語化を試みる、ということでもありました。何もわからないなら何もわからないなりに、あてずっぽうでもいいから何らかのアプローチをして、それを失敗させなくてはいけない。そうすれば、そこには「何故失敗したのか」「そのアプローチは正しかったのか」というとっかかりが出来る。その「とっかかり」があるかないかで、質問の価値、質問によって問題を解決出来る可能性というものは根本的に変わります。
「分からない」を解決する、というのは、一種の宝探しのようなものでして、「どこに理解を妨げている要因があるのか」というものをどうにかして探り当てなくてはいけません。それは単純に知識不足なのかも知れないですし、アプローチの方向性が間違っているのか、何か理解を妨げる勘違いをしているのか、あるいは内容について読めていない部分があるのかも知れません。
「一台目の掃除機」がないということは、それを全部一からマインスイーパーしろということであって、相手に負荷をかけることにもなりますし、有限の時間を無暗に浪費することでもあります。
「宝探しのフラグを作れ」。全然宝の場所と離れていてもいいから、どこかにとっかかりを作って問題を相対化しろ。
(…)
もちろん、分からないうちはまず「分からない」を表明すること自体が難事ですので、そのハードルを可能な限り下げることは前提として(考えてみると、S先生も最初に「分からない」と表明出来たこと自体を褒めてくれていました)。
その上で、「どんなあてずっぽうでもいいから、まずは何かしらアプローチをしてみて。
そうすれば、「それが何でダメだったのか」というとっかかりが出来るから」と教えています。
これが最初から出来る人って、実はすごーーく少ないんですよ。
こういう教え方をすると、割と呑み込んでくれる人が多くって、以降「とにかくやってみました!けどダメでした!」という質問形式に変わってくれることが多いので大変助かっているわけです。