行為より認識
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そして、これ(追記:ルサンチマン)こそがただ「気づく」だけで消すことが可能な種類の問題だろう。呼吸や感覚への「気づき」の延長線上にこの種の「気づき」がありうると見なすのは誤りだろう。後者の「気づき」には、例えば「ルサンチマン学説」のような理論知の介在が不可欠だからだ。それは知的に学ばれねばならない。 認知の範囲の外側にあるものは、理論知的なものを足掛かりにして登っていく必要があるのだ
逆に「気づき」でもって直ぐに行為を変えられる類のものであるということでもあるか
認識を変えて、構造を捉えることで、あとは行為によって、ミッシングピースを埋めていくだけ。 逆説的には、構造を捉えられていない場合、「認識は変わっていない」