目的論とは、脳が運動系から「目的」だけを取り出している
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未解題なので、全部乗っけるが。。
養老孟司.icon 脳は感覚の場合と同じように、自分の運動系を知っている。それは、始めは知覚系による、運動の監視のみだったであろう。しかし、やがて運動系の脳内での機能そのものが、われわれの意識にのぼり出したはずである。それが目的論の発生に違いない。(p234) くり返すが、脳には情報のインプットとアウトプットがある。見たもの、聞いたものそういう知覚による情報のインプットがある。その情報を処理して、何らかの「運動」を起こす。体を動かす。たとえば、見たものが「餌」と判断されたら、そこに手を伸ばし、食べる。動物なら、襲いかかり、捕食することもあるだろう。あるいは餌ではなく「敵」だと認識されたらどうするか。そこから逃げることになる。 手を伸ばして食べるにしろ、襲うにしろ、逃げるにしろ、そこには「運動」というアウトプットがある。その運動というアウトプットには、襲うとか逃げるという「目的」が存在する。 養老孟司.icon 脳内に運動系がある以上、脳はそれを黙って見過ごすことはできない。そこに目的論思考が生じる。(p236)
このような脳への情報のインプット、そして運動というアウトプットによって、目的を持った行動をするということがされるのだが、そこから「運動」つまりここでいう「目的」だけが抽出され、じっさいの筋肉による運動と切り離された脳内だけでの活動となるとどうなるか。それが「目的」の誕生、ということになる。脳が、脳で起こっていることを見つめる、それがヒトの脳の特徴だが、以上の説明でおわかりのように、運動系という働きを持ったヒトの脳によって、目的論思考というものが生まれることになる。
養老孟司.icon 目的論というものが、アリストテレス以来、ヒトの思考と切っても切れない縁があるように見える。それはなぜか。われわれの脳は、運動系からいわば「目的論を取り出して」いるのではないか。(p235)
なんのために?という目的は、われわれの生活や仕事のあちこちにある。それはヒトが、このような大きな脳を持っているからである。そして前章で見たような、形の見方の一つに「機能的(=目的的)」見方というか発想が生まれる。ヒトが形を機能的なものとして見る。そのような視点は、ここで説明したような、そこに脳があったから、となる。 養老孟司.icon われわれの脳は、知覚系と運動系とを、世界像の形成に動員するらしい。ここに哲学における目的論の系譜が生じる。(p238)
ヒトは、そのようにして、目的を持って行動し、目的を持って生きることになる。哲学にも目的論というものが生じ、形の見方にも、どのような目的で?という見方がされることになる。(p71-73)