文脈を複数化へと拓くのがアート
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「いまこういう作品がキテるよね」とか「こういう作品は残らないな」といった言い種がにがてなのは、こうした偏狭な文脈主義 Contextualism が、アートの、ひいてはホモサピエンスに潜在している可能性を、貧しくしてしまうと感じるからである。文脈 Context を、複数化へと拓くのがアートなのだから。 SNSなどのネット上に貼られた作品たちの、最大の魅力は、そのコンテクストが一つではない(もちろん小さなクラスタ内で一つであることもあるけれど)ことである。美術館や美術画廊に並んでいる作品は、その「選択眼」によってコンテクストの幅が狭くなるので、学生の作品がもつ多様性にはホッとする。美大藝大の作品講評会に呼ばれて赴くと、その未発表作品たちの、制作動機の多彩さによって、一つのトレンドではない内発的逸脱が、豊かに、随所にみられる。ただし、このコンテクストの複数性は、美術コンテクストにどっぷり浸かった講評者からは〈未熟さ〉と誤認される。だが、それは誤認なのである。
物事を鑑賞するって名前を纏うことではない。共感し合うのも作家の名前で、コンテキストではなかった。ガスタンクも何となく眺めて作った映画も売りが『長い』こと。そこに愛はないし、可愛い彼女を写すための背景でしかなかった。