文化=疎外態
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佐藤はジンメルにおける文化概念について、さらに「この人為的構成体としての文化の文化たる所以は、『おのれを生んだ魂からも、おのれを受け入れあるいは拒む他のそれぞれの魂からも独立して、それ特有の自立性(Selbstständigkeit)のなかで実在しつづける』点に求められる」とした
「『疎外』とは、人間主体による自らの制作物の『外化、Entäußerung』、およびこの外化された人為的制作物による人間の『支配』あるいは『拘束』という二重の関係構造をいう」として、「総じて『文化』とは『疎外態』の別名でもあって、われわれの人為が創り出したものでありながら外化され形象化されて『自存性』を獲得し、われわれを逆に支配し拘束するに至ってしまったものの総体にほかならない」と述べて、「文化=疎外態」という等式を導くのである。 文化の重要な基盤をなす言語は、時と処によって、極めて多彩な形態を持っており、自然法則のような単一性を持たない。しかし、一旦、成立した言語は、当該の言語圏に生きる人々にとっては、それに従わなければならない拘束性を持つことになる。つまり、「疎外態」として立ち現れるのである。レヴィ=ストロースも「ソシュールの原理にしたがって、ある音の集まりがある対象を指す理由はア・プリオリ(a priori)には少しもないことを認めるにしても、ひとたび採用されたこれらの音の集まりが、それらと結ばれることになった意味内容に特殊なニュアンスを与えること」になり、「言語記号の恣意性は仮のものに過ぎない。記号がひとたび作られたとなると、...(中略)...記号の性向ははっきりしたものになる」と述べて、言語の疎外性に言及している スポーツ=疎外態
つまり、スポーツは、それを作り上げた人間主体から外化され、それ自体で自立した構成体をなしている(…)従来のスポーツ理解では、それを身体運動とみなすにしても遊戯として把握するにしても、基本的には人間個人に付帯するものとみなされてきたと言える。しかし、「スポーツ=文化=疎外態」という等式に基づくなら、スポーツが一人ひとりの具体的な人間から離れて存在する「自立した構成体」であるということになる
文化概念の本質、すなわち、「疎外という機序を内在させた自立的な存在性」という特質を考慮するなら、最も合理的な説明は、それぞれのスポーツ種目には、個々のスポーツ選手を超えて、他の種目と混同されることのない独自の自立的構造が存在する、とみなすことである
スポーツ構造
その自立的な構造を「スポーツ構造」と呼び、多様で一回性的な「スポーツ現象」が繰り返し生成する根拠、あるいは「仕組み」であるとする
スポーツは現象と法則だ、みたいなこと岡田斗司夫.iconも言ってたな スポーツ構造は、目に見える表層でのスポーツ現象を繰り返し再現することを可能にする深層での仕組みであり、自然現象に対する自然法則がそうであるように、不可視ではあるが実在していると見なさなければならない
このスポーツ構造は、「疎外態」である以上何らかの人間能力が外化されたものと見なさなければならない。佐藤は、スポーツ構造には、人間のもつ諸能力、すなわち、知性、感性、身体性の全てが外化されているとし、それぞれを「身体的契機」「知的契機」「感性的契機」と名づけている 2 。そして、スポーツ構造におけるこれらの契機は、ちょうど人間の身体が、おのおの独立した構造・機能体である多くの器官から構成されながら、それらの相互作用によって身体全体のシステム性を維持しているのに類似して、構成契機としての独自性を保ちながらも相互に規定しあう複合的なシステムを形成している、と述べている
疎外の構造
身体的契機
運動形式
知的契機
知的所産であるルールが規定している
感性的契機
「この感性的契機には、各地域の文化的価値観が強く反映している」と主張する。たとえば、「英国スポーツを特徴づけてきたスポーツマンシップは、英国固有のジェントルマンシップを背景とする美観や倫理観に根ざすもの」と言えるし、「柔道や剣道といった日本の武道には、武士道的な倫理観や美観が背景にある」とし、「身体的契機と知的契機が特定の文化に縛られることのない世界性、普遍性を有しているのに対し、感性的契機のみは当該文化 圏の価値観からの影響を強く受け、地域性、特殊性を保持し続けている」と主張するのである