換喩と隠喩の平衡
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人は、一般に、十七歳の頃は、学習の作業に追われ、異性への思慕という理想に悩まされているものではないのか。孔子の昔から、十五にして「学び」二十にして「思う」のが相場なのだーー。しかし現実の社会は、(異性への)思いに隠喩の力を駆使できるようにはなっていない。というのも、異性たちが(化粧や携帯メールなどによって)換喰の技術的な力をますます鍛え、そのことを誇示しているからである。
大人たちの知恵に畏怖を感じ、精神的に背伸びすることで、自分の隠喉の力に表現の場を与えるというやり方も、昔はあった。しかし大人たちの世界に今あるのも、技術にせよ世論にせよ政策にせよ、おおよそすべて換喩である。いいかえれば精神の(現実主義的な)水平運動であって、その(理想主義的な)垂直運動はどこにもみられない。 つまりは、換験と隠喰を交互に動かすための蝶番が壊れてしまったのだ。(p109)