儒教的なAIや技術のフレンドリーさ
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儒教って、基本的人権、民主主義はどうでもよく、民を豊かにしてくれるリーダーであればいい、という考え方なんです。中国は昔から科挙を通った文官のエリートに国を任せてきました。こういう考え方は、欧米から見れば非民主主義なんですよね。今の中国共産党も儒教的。若い行政マンを地方に送り、業績を上げた者を中央に戻す、というやり方です。つまり儒教は、たとえ民主主義的でなくても、世の中をよくしてくれるのであれば、それでいい。そういう考え方なわけです。 基本的人権・民主主義という考え方がない
儒教は一神教とは関係のない、まったく違うレイヤーの考え方なので、神から与えられた基本的人権のような考え方は、そもそもないわけです。優秀であるはずの政治的リーダー、もしくはAIのようなものが何かの理由で間違いを犯したときには、それは天命を失うということであり、天命が失われたのであれば、かって皇帝がつげ変えられたように、体制が変わらなければならない、という考え方です。 でも未来予測的には、中国的な考え方のほうが有利じゃないかなって思います。AIって、どんどんデータを使っていかないと進化しないじゃないですか。最近プライバシーの問題で米国のテクノロジー大手が非難されることが増えてきましたが、これが米国のAIの進化の足を引っ張るのではないかと思います。 一方で中国は、そういうことを一切懸念していないので、ますますAIが進化するのではないかと思います。 欧米
欧米は、どんなに人工知能が社会をよくしてくれても、それはアルゴリズムとデータであって、そんなものに社会を支配されるのは、人間の尊厳を揺るがす、と考えるわけです。ユヴァル・ノア・ハラリ氏も、欧米の一神教の考え方が根幹にあるのかもしれませんね。要するに、神から権限を与えられたのは人間だけであって、よれを揺るがしてはいけない、という考え方ですよね。