モノの次元は不意に立ち現れてくる
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清水高志.icon モノの次元というのは、まずもって不可視なものであり、先ほど甲田さんもブリュノ・ラトゥールについて触れていましたが、新しい科学上の発見がなされるような場合に、不意に立ち現れてくるものだと思うんです。そうなった時、つまり新しくモノが立ち現れてきた時、何が起こるかというと、むしろ人間主体のアプローチや社会が変わるんです。社会の離合集散のあり方が変わっていく。それも一挙に変わるのではなく、社会的アクターが複数いる中で、その複数のアクターの各々がそのモノに対して色んなアプローチを行うことで、それらが徐々に変化していく。また、それぞれのアクターのアプローチとコロナとの関係、アプローチするアクターどうしの関係の中で、当のコロナ自体もやっとその姿が見えてくる。まさに人間集団と不可分な、ハイブリッドなものとして出現するわけです。COVID-19はその典型的な例を私たちに示している。ですから新型コロナが生じて以降、知識人や批評家たちがたとえば「新型コロナとこれまでの社会とのどちらを取るか」とか、あるいは「これはウイルスとの戦いである」とか、様々な発言をしていたんだけど、そうした二分法はこの場合むしろ、全く成立しないんですよ。 また一方では、今回のパンデミックによって、社会が過度な自粛や私権の制限、監視社会化によって全体主義化する危険があるといった議論や、フーコーが語ったような「生権力」が前景化するという主張もたくさん出てきました。言いたいことは分かるのですが、ただ、それはあくまでも社会というものが統一的なもの、ユニファイされるものであるという前提で人間集団を考えた場合の図式であるように思います。それらの議論においては、人間社会を分断したり統一したりするものは人間のイデオロギーであったり、階層の違いであったりという人為的なものであると見なされ、そのありようが批判されているわけですが、モノの出現によって人間集団が分断されたり、あるいはクラスタを形成したりしているこの状況において、こうした文脈で新型コロナ(2020-2022)の問題を考えているとおそらく誤ると思うんです。(p166-167)