ニヒリズム
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能動的ニヒリズム・・・全ては無価値、偽りばかりで、仮の形しかとらないものであると認めた上で、自らが生きていくその時々の場面に応じて、その無価値な抵抗を続けていこう 千葉雅也.icon ニヒリズムが深まるところまで深まったってことですね。そうなったらユーモアにいくしかない。となると、近年はネオリベラリズム的な偶然性の増大に脅かされてみんなが安定志向に向かっていたけど、いよいよとなったら諦めるしかないので、徹底的なニヒリストになって、再びなりすましあるいはユーモア的な二重の生を生きるようになりつつあるのかもしれないですね。 「すべては無意味である」という、世界に対する否定的な感情。それを出発点に、「認識された無・世界否定感情の起源そのものがニヒリズムの根源」と「誠実に認識された無意味性を最後まで徹底した先に出てくる有意味性」の二つのニヒリズムが派生してくる ニヒリズムには三種類ある
⑴「神(キリスト教)」が死んだ、という意味
⑵「神(キリスト教)」が生きている(だが〈神〉は死んでいる)、という根源的な意味
⑶徹底的に「神(キリスト教)」が死ぬ(だから〈神〉は生き返る)、という徹底的な意味
順番としては⑵→⑴→⑶
はじめに、無が神とされてしまう(〈神〉の死の〈ニヒリズム〉)が、次に、同時に育った誠実性がそれを暴露して無を無と認めるときが来て(「神」の死の「ニヒリズム」)、最後に無に徹する可能性(「神」を殺し切ることによって〈神〉を生き返らせる)が語られるのである。つまり、最初の無自覚なニヒリズムは、それを自覚してそれを受け入れれば、最高の肯定の方式ともなりうるのだ。(p87-88)
なぜ「神」は死ぬのだろうか。ニーチェが与えた究極の答えはこうだろう──もともとほんとうは死んでいたからである。もともと〈神〉が死んでいたからこそ、いま「神」が死ぬのだ。まずは、それが無であることによって〈神〉が死に、つぎにその無が知られることによって「神」が死ぬ。ニーチェのリヒリズム概念の外見上の多義性は、この構造に由来するのであろう。(p110)