わかり合えない
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人は、人が「分かってくれない」から、自由を得ることができる。人は、「分かってくれない他者」を前にして、孤独と自律と自己表現の動機を獲得するのである。もし、阿吽の呼吸で、何でも「分かってくれる」人がいたとしたら、人はその人に完全に支配されてしまうことだろう。 愛のある関係とは、なんでも「分かり合える」状態ではない。「分かろうとして、失敗して、それでもなお分かろうとしつづける」こと。
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RB 「どうしてもあなたのことがわからない」とは、つまり「あなたがわたしのことをどう考えているのか、どうしてもわからない」ということなのだ。わたしにはあなたが解読できない、あなたがわたしのことをどう解読しているのかがわからないからだ。(p81) 宮台真司.iconが「関係性の中で理解されるには、自分から理解しなければならない」と言っていたらから恋人のことも理解しようと思っていたのだが、実はその必要などないかもしれないなあ。。 そもそも「理解・承認されたい」という欲求があるのだよなあ 誰かを好きになると、その人が誰なのかを知ろうとする。そうして間違った思い込みを重ねて、関係をこじらせていくのである。誰かを好きになって、その好きという感情を大切にしたいなら、その人の「正体」を知ろうとすることをやめ、その人との間に起こる奇跡のような経験に意識を向け続けることだ。
顔とか、性格とか、属性とか、アイデンティティとか、価値観とか、倫理とか、いずれにせよ人を見るときの視点としては分析的にすぎる。もっと、その人の曖昧な揺れ動きそのものに感応して戯れる方がいい。その方がその人のことがよく分かる。いや、分かる必要がなくなる。楽しいのだから。人と揺れ合っている。人にも自分にもそれ以上のことは望まない。いや、それ以上の快感、多幸感を感じたことがない。
「わかって欲しい」って「私を不当に扱わないで」とか「私が納得する愛し方をしてくれ」という言葉の下位互換だと思う。「私はこのように愛されることを望みます」「私はこのように取り扱ってもらいたいです」と素直に出して、それを無理なく叶えられる人が「相性の良い相手」であって、歩み寄りやプレゼンも大事。(これは技巧の部分)(…)「何を」「誰に」「どう望んでいる」のか、客観的になると楽になることが多い。