「X主義者」であることをあえて標榜する
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西部邁.icon 元来、保守思想は単一の思想に熱狂することを平衡の喪失として嫌うものである。しかし伝統破壊がここまで完膚なく進行したとすれば、保守的人間はあえて「主義者」となるほかないのだ。つまり、伝統があたかも目前にあるかのように思いなして、いいかえれば幻像であることを承知しつつ伝統を設定して、その保守を訴えてみせるしかない。(p313) 保守に関する福田恒存の文章で好きなの。やっぱ「保守派はその態度で人を納得させるべきで、イデオロギーで承認させるべきではない」かな。保守的な生き方考え方はあっても「保守主義」なんてものはない、と。もし保守派が「主義」を振りかざし、それを大義名分化しようとした時、保守は「反動」になる。だから、保守派が保守を主義にする。それを大義名分化する。そうしないと保守派が滅びると言うのは「彼らが大義名分によって隠さなければならぬ何かをもちはじめたというふことではないか」云々という指摘は、60年の時を経て今もなお有効なものだと、今でもある種の連中に当て嵌まるものだと思う。 保守派は無知だ頑迷だと言われようが「まづ素直で正直であればよい…常識に随い、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆずればよい」のだ。多分今の保守「主義」の人々に出来ないのは「その時は…ゆずればよい」の部分だ。彼らが「隠さなければならぬ何かをも」ってるからだろう。保守だって進歩は望むワケ。そのやり方が「三歩進んで二歩戻る」なだけだよ(「頭で考えた事には限界がある」「一見時代遅れと思える考え方にもそれなりの合理性がある、それを…過去の人の知恵を…尊重しろ」とか)。それを捨てて「過去は完璧。進歩するな」となったら単なる反動か、懐古主義者だよ。
「〜主義」を名乗ることで判断の責任を他者に譲り渡すんだろうな。そのうちどんどん非人間的になっていく。常に判断を自分自身に引き受けるのが主義と生き方の違い。保守の判断は常に事例に対し個別的であるべきだから主義ではあり得ない