中国における技術への問い ユク・ホイ
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なぜ「技術」は西洋の伝統のうえでのみ定義され、論じられてきたのか? ハイデガーの「技術への問い」を乗り越え、破局へと暴走するテクノロジーに対抗するために、香港の若き俊英は文化的多様性に開かれた「宇宙技芸」の再発明に挑む。京都学派から100年。「近代の超克」を反省し、東洋思想を再び世界へと開くために必要な、「道」と「器」の再縫合はどうなされるべきなのか。諸子百家と人新世を結ぶ、まったく新たな技術哲学の誕生! 二〇〇九年、私はハイデガーにかんする西谷啓治やベルナール・スティグレールの仕事に出会い、時間の問いという観点からこうした異なる哲学体系にアプローチする道筋を得た。より最近になってからは、人類学者のフィリップ・デスコラや中国の哲学者・李三虎の著作を読んでいくなかで、ひ とつの具体的な問いを立てはじめた ── もし複数の自然の概念が存在することを認めるなら、 複数の技術について、つまり単に機能的で美学的な面だけでなく、存在論的かつ宇宙論的な面 でもそれぞれ異なっているような技術について考えることはできないだろうか? これは、本書のなかでもっとも重要な問いである。私は、テクノロジーとその歴史についての問いを切り 開くための試みとして、「宇宙技芸」 (cosmotechnics) というものを提唱している。二〇世紀をつうじて、この問いはさまざまな理由によって閉ざされてきたのだ。 一九五三年、マルティン・ハイデガーは「技術への問い」という有名な講演を行なった。そこでハイデガーは、近代的なテクノロジーの本質とはテクノロジー自体にまつわるものではなく、むしろ集立 (Ge-stell) であると述べている。集立とは、すべての存在者を「用象」もしくは「在庫」(Be- stand)の身分に、つまり測定され、計算され、搾取されうるものに還元してしまうような、人間と世界の関係の変容のことである。(p30)
技術の概念を相対化する努力は、異なる文化のさまざまな時代における個々の技術的対象もしくは (ベルトラン・ジルの言う意味での)技術システムの先進性を比較するような技術史の研究だけでなく、既存の人類学的なアプローチに対しても異議を唱える。科学的かつ技術的な思考は、もろもろの宇宙論的な条件のもとであらわれる。そうした条件は、人間と環境のあいだの決して静的ではない関係のなかで表現されるものだ。だから私は、このような技術の概念を宇宙技芸 (cosmotechnics) と呼びたいと思う。中国の宇宙技芸のもっとも特徴的な例のひとつは中国医学だ。それは「陰陽」や「五行」、「調和」といった、宇宙論とおなじ原理や用語を使って身体を記述するのである。
ここで、宇宙技芸について予備的な定義をしておこう。 宇宙技芸とは、技術的な活動をつうじた、 宇宙の秩序と道徳の秩序の統一である(ギリシア語のコスモス 〔kosmos〕が秩序を意味する以上、宇宙の秩序というその語そのものが反復的ではある)。 宇宙芸の概念は、とりもなおさず、 ある概念上の道具を与えてくれる。それによって、技術と自然という型にはまった対立を乗り越えられると同時に、哲学の課題とはこの両者の有機的統一を追求し肯定することだと理解できるのだ。この序論の残りの部分では、ジルベール・シモンドンという二〇世紀の哲学者や、ティム・インゴルドなど現代の人類学者の著作のなかに、この宇宙の概念を探っていくことになる。(p51)