懸念(元素系)
。。大丈夫かな。。元素の検討でいろいろ「食ったりなんなり」の話が多いが。。
自分の場合は、「伝統的、すなわち2000年の妥当な経験」がないものは一旦は逡巡する。そしてそれが「感情的に納得」できる図書や情報、経験があったときには試してみるが、まだ他人には云えるわけもない。
最低3年、ふつうは7年ほど、可能なら10年以上、常用(月一でも)するのならいちおうは検討の俎上にあがる、という態度です。
基本的な知識として、20才まで、と28才まで、とその後はかなり違うのは修復タンパク質から自明。
ここについて。。よくある仏教の議論で、「いろいろな修行、瞑想法は、目的が「悟り」でないと意義がない」「病気の修養を目的にしたものはどうか」というまああんまり意味のないような議論があるわけだが。。その意味のなさを、これにあてはめてみる。
。。。なぜ意味がないか、というと「目的」をもったら、それは「求不得苦」だからですが。
ソコ、も説明しなきゃならんのか。。「道元禅師」の「おまえはなんのために座禅してるか?」「衆生のため」、と毎日尋ねられて、透れなかったという修業時代の話でもみてください。「我」「慢」「受」だろうけど。
まあ。。元素の検討の「目的」が。。なにか、というと。。予防、養生、病の修復、であるなら。。どうなのかね。。それらが汚染物質起因であるなら、片付く、というのは妥当だろう。
これについては「危険を避ける」という仏教聖典のことばをもってきて、その行いを整頓してるつもりなんですが。。
その。。そこで得た、つくったものが。。あと耐えられるのかどうか。。物質として。。そこまでは確認すべきだろう。
これらは「そうかんたんでもなく」なぜなら、自分勝手になにか達成するところをつくったらそれは「求不得苦」「まちがったものを求めている者に過ぎない」と、「苦」の結果を得るだけ。。
かといって、他のすぐれたものを持ってきても、それが達成できるわけもない。
だから、単に中医学をそこに、という態度なんですが。。
一気にそれをもってきてるわけではないよ。。物質系の検討で「済めば」それはそれでいいわけだが。。
聖堂の神農でしょう。。行き詰まったら。。
しかし。。もうそういった検討してるひまがないみたいでさ。。こんなところにすこし書いてるだけだが。。
付記:
1 最低3年、ふつうは7年ほど、可能なら10年以上、常用(月一でも)するのならいちおうは検討の俎上にあがる、という態度です。
2.基本的な知識として、20才まで、と28才まで、とその後はかなり違うのは修復タンパク質から自明。
これらは知識と経験から。。細胞と老いの話をふつうにみれば自明かとおもう。図書等まとめてもちょっと何度も書きすぎてるし。。そのうち。
付記2:
「病気の修養を目的にしたものはどうか」ということに対しては、それがどうであっても検討してみるべきだろう。