カイチュウノカイ
南へ旅行に行った友人から荷物が届いた。小さな木箱だ。配達夫から受け取る。あまりの軽さに中身を入れ忘れたのではないかと心配になった。自分の部屋に戻りながら木箱を振るとカタカタ音がする。退屈な夏休みを過ごしていた玄臣(はるおみ)は、早速中身を知りたくなった。
木箱を机に置くと、読みさしで伏せていた本に栞を挟み本立てに戻す。出したままにしておくのは落ち着かない性質(たち)の少年だ。母親が世話を焼かなくとも部屋は片付いている。身につけている襯衣(シャツ)も、襟の裏まで自分でアイロンを当てたものだ。椅子に座ると、飲みかけの曹達水の入った洋盃を机の端に寄せた。
陽にあまり当たらないため青白い手で、小箱に巻き付けてある麻紐を丁寧にほどいてゆく。ボトルシップを作るのが得意な玄臣の指は器用だ。ほどいた麻紐を脇によけて木蓋を開ける。手のひらほどの大きさの貝殻が入っていた。取り出してじっくり眺める。初めて間近で見るそれに、玄臣は興味津々となった。
白い巻き貝の表面はザラザラしていて、先端が尖っている。石灰質でできていると辞典に書いてあったことを思い出した。所々に焦げ茶色で模様があり、内側に指を入れて撫でるとつるつるとしている。以前はこの中に軟体動物が住んでいたのだ。
同封された手紙によれば、ホテルからは海が見えるのだという。海には角が削れて丸くなった硝子の欠片や、遠い外国から流れ着いた瓶や缶、種類も形も様々な流木が落ちているらしい。
白い砂浜は足の裏が焼けるほどに熱く、足首にかかる波が心地よいそうだ。照りつける太陽のために、一週間でずいぶん日灼けしたと自慢げに書いてある。光化学スモッグに覆われたこの町で、暗褐色に灼けた人はめったにいない。夏休み中の昼間は大抵警報が出ていて、屋外で活動は著しく制限された。
玄臣はいつか聞いた話を思い出た。貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるというのだ。貝殻がふるさとの海を懐かしむ音だという。蓄音器の喇叭でもあるまいし、こんなものから音がするものか。子どもらしい柔らかさを失いつつある頬の上の、少しとがり気味な白い耳に貝殻を当てた。
玄臣が半信半疑のまま目を閉じるとざーっと音が聞こえた。驚いて立ち上がる。薄いカーテン越しの日差しがやけに熱く感じる。砂交じりの風を頬に感じて薄く眼を開けた。
何の見間違いだろうか。正面にあるのは曾祖父から祖父、父へと引き継いで使ってきた古い机のはずだ。右側には少し黄ばんだカーテン。だが玄臣の見開いた目に見えたのはどこまでも続く海。下を向けば白い砂浜。いつの間にか裸足になって熱い砂の上に立っている。
ざざん、ざざんと、雑踏とも違う音がいつまでも止まない。貝殻はとっくに耳から離れている。
水が足首にかかるのに驚き後ずさった。小さな巻き貝を踏んでさらに一歩下がる。そのうちに波は引いていく。追いかけると波は玄臣の足首を再び濡らした。
ひとしきり波打ち際で遊んだ玄臣に声をかける者があった。
「君も来ていたんだね」
すっかり日に灼けた少年である。懐かしいようでいて、誰であったか思い出せない。
「うん」
「君は泳げたよね、向こうの岩場まで競争しよう」
少年が指を指す。
「でも海水着がない」
「なにを言っているんだい。もう着ているじゃないか」
玄臣は自身の姿を見下ろした。さっきまで半袖の開襟シャツに半ズボンを合わせていたはずだ。それがすっかり着替えを済ませて、黒橡色(くろつるばみいろ)の海水着を着ていた。
「行こう」
少年がかけ声とともに海に入ってゆく。腰まで海水につかった辺りから泳ぎ始めた。少年の泳ぎはなかなかのものだ。出遅れた玄臣は追いかけるようにして岩場を目指す。
必死に水をかき少年に並んだ。一度目を合わせる。そこからまた競争だ。
「着いた」
玄臣が息を切らして岩場に上がる。僅かに早く到着した少年が玄臣の腕を掴んで引き上げた。砂浜で声をかけられたときには、玄臣より少し小柄に思えた少年だが、並ぶと背の高さはさほど変わらない。痩せてはいないがほっそりとした、玄臣と同じような体つきをしている。幾つか年下だと思ったのも勘違いのようで、同じ年頃だろう。柔らかそうな頬はまだ薔薇色だ。
岩場から砂浜を眺める。波をかぶったところは黒く、乾いたところは白く見える。所々光っているのは細かな硝子の粒だろうか。
「ここを覗いてごらん」
少年が指さすのは、砂浜とは反対側の海の中だ。玄臣は硬い岩場に膝をつき、海中をのぞき込んだ。
「うわあ」
感嘆の声を漏らす。
「すごいだろう」
「すごい」
優雅にひらめく朱いひれ、太陽光を受けて輝く青いうろこ、目に鮮やかな黄色い線。
色とりどりの魚たちが泳いでいた。
「もっと向こうには珊瑚もあるんだ。行ってみるかい」
少年が沖を指さす。何年か前にボートで行ったことがあるらしい。
「行ってみよう」
「じゃあ宿に戻ってボートを借りてこよう」
「その前にお午ご飯にしよう」
相談がまとまった。再び海に入って砂浜まで泳ぐ。帰りは波に押されて少し速いような気がした。
玄臣は浜に泳ぎ着くと、宿を目指して歩いた。砂浜と道路との境には幾つかの建物が建っている。その中でもとりわけ古そうな建物が玄臣の泊まっている宿だ。玄関脇の水道を借りて手足の砂を洗い流す。これから海へ泳ぎに行くらしい親子連れが出てきた。半ズボンに柄物の襯衣を羽織った父親。ワンピースに麦わら帽の母親。黒橡色の海水着を着た男の子に、玄臣は不思議な懐かしさを感じた。幾らか年下のようにも見えたのは目の錯覚だろう。見送る後ろ姿は同じ年頃に思える。不意に振り向いた男の子の頬は子供らしくふっくらとしている。浮き輪を掴む手の小ぶりな手は、水道の蛇口に置いた玄臣の手とそっくりだった。
おにぎりと漬物で食事を済ませた玄臣は、宿の番頭にボートを借りると再び海に向かった。ボートは波打ち際に立てられた杭に鎖で繋いである。借りた小さな鍵で南京錠を開けて鎖を外す。ボートを海へ押し出していると、先ほどの男の子が駆けて来た。日よけに青い襯衣を着ている。
「ねえ、どこかに行くの」
「向こうに珊瑚があるらしいんだ」
「僕も行っていい」
少し離れたところで、男の子の父親が頷くのが見えた。男の子によく似た、しかし子供時代の頬の膨らみはすっかり無くしてしまった頬をしている。玄臣はその人に親しみを感じた。
「もちろん」
海に浮かんだボートに二人が乗り込む。二本のオールを慣れない手つきで操りながら沖に出る。岩場を過ぎた辺りで海をのぞき込んだ。宝石箱をひっくり返したように様々な色の魚が泳いでいる。
そこからさらに漕いでいく。
「もう少しかな」
遠くなる砂浜に少し不安を感じ始めたとき、男の子があっと声を上げた。
「ああ」
玄臣も声を上げる。
覗き込んだ海のなかに、白い珊瑚が集まっていた。
珊瑚の間を魚たちが行き交う。南国の色鮮やかな魚。しばらくの間二人は天然の水族館を眺めていた。
ボートを杭に繋ぎ直して宿に帰る途中、砂浜で貝殻を拾った。
手のひらに余る大きさの白い巻き貝だ。ざらざらとした表面。所々に焦げ茶の模様が入っていて、内側を指で撫でるとつるつるしている。
貝殻を、子供らしく柔らかい頬の上にある、少し尖った耳に当てた。
目を閉じると波の音が聞こえる。
ざざん。ざざん……
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……ざざん。ざざん。
貝殻が故郷を懐かしむ音に、子供の頃に行った海を思い出す。少年らしい柔らかさを失って久しい頬の上にある、少し尖った耳から貝殻を離して息子に返す。友人へ送るつもりらしい。
海洋汚染が深刻化する前の夏の旅行と言えば、海が定番だった。新学期には、一夏でどれほど灼けたかを自慢し合ったものだ。
何年も待ち続けて、ようやく海辺のホテルの予約が取れた。部屋の窓の外に海が見える。海には角が削れて丸くなった硝子の欠片や、遠い外国から流れ着いた瓶や缶、種類も形も様々な流木が落ちている。