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世界は分かたれた。そして平和が訪れた。
おかげで俺はゴミ漁りをやっている。毎日毎日、他の区画から流れてくる不要品の山を掘り起こし、まだ使えそうなものを取り上げる。それが俺の日常だ。ありがたすぎて、AI様には頭があがらない。
理性の体現者たるAternative Intelligenceは、俺たちに平和と安定をもたらすため、あらゆるものを分別した。壁を作り、あちら側とこちら側をこしらえた。右と左が分けられ、白と黒が分けられ、平凡なものと成功者が分けられた。分割は再帰的に繰り返され、世界には多数の区画ができあがった。同じものたちだけが集まる区画群だ。
それぞれの区画は、恒久的に交流を断絶された。もはや世界は壁の中にしかない。壁の外という考え方は、俺たちのような例外を除けば、この世界には存在しない。それが人間にとって最も幸福な環境であるとAIは判断した。
まず最初に神と世界が切り離された。神は、壁の向こうへ追いやられ、世界に干渉する術を失った。世界もまた、神を知る術を失った。
ではなぜ、俺は今こうして神について語っているのだろうか。
それは俺がゴミ漁りだからだ。流れ着いたゴミの中には、本と呼ばれる旧式の情報媒体があった。きわめて原始的な媒体ではあるが、その分AIの情報制御からは遠い。そこにはAIがこの世界に平和をもたらす前の世界──諍いと、争いと、戦争の歴史──がいくつも記されていた。
AIは情報アクセスの頻度に応じて情報を整理し、分別する。あまり参照されない情報はインデックスの奥深くに隠してしまう。そうすることが、俺たちにとって幸福だと彼らは「知って」いるのだ。実際その通りなのかもしれない。過去のことを知ったところで、現在に幸せが訪れるわけではない。むしろ、この俺のようにいらぬ不満が積もるだけだ。
俺は考えてしまう。神とは一体どのような存在だったのだろうか。人々はそれを崇拝していたと本には書かれている。その「崇拝」とは何のことだろうか。俺たちがAIに抱いている気持ちと近しいのだろうか。
きっと神とは何かのメタファーなのだろう。「メタファー」とは何かに喩えることによって、物事の本質を伝達する手段だ。メタファーは、本の中ではたくさん使われているが、今の時代にそんなまどろっこしいものを持ち出すやつはどこにもいない。AIは、俺たちの意思疎通も補助してくれる。彼らのパイプを通すことで、俺は俺の言いたいことを、ほとんどその通りに相手に伝えられる。言葉を尽くす必要はどこにもない。
俺が「Xだ」と言い、相手が「わかった」と言う。完璧な世界だ。
もちろんそれは、意思疎通が取れる程度に似通った存在だけを集めた区画だからこそ可能なことだ。ほんとうに完全なコミュニーションなど存在しない。完璧な絶望が存在しないように──そんなことがどこかの本に書いてあったが、そもそもこの世界には絶望が存在しない。AIの手厚い保護によって、あらゆる絶望が駆逐されている。だからこそ、俺は今ゴミ漁りをしているのだ。泣けてくるではないか。
俺は推測する。神というメタファーは、壁を越えるための道具だったのではないか。AIなき時代に、人類が必死で考え出した手段だったのではないか。とは言え、それを確かめる術はない。神のことを知っている人間なんて、誰ひとりいないのだから。議論も証拠も演説も何もない。ただ空想するだけだ。
俺は薄暗い空を見上げ、ため息をついた。他の区画よりも少し低く作れらたこの区画は、昼間でも少し薄暗い。ゴミは低きに流れる。これまた泣けてくる。
「おい、セイ。休憩時間はとっくに終わってるぞ。さっさと持ち場に戻れ」
現場監督であるマスダの声が聞こえてきた。
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emergency
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見つかったヤバイ、という危機感は俺にはなかったし、灰色の作業服姿でこちらに近寄ってくるマスダにも怒りの表情はなかった。むしろニヤニヤとした笑みを浮かべている。それでも一応仕事をする気はあるのか、マスダは俺に尋ねてきた。
「お前、コールバンドはどうしたんだ」
「うるさいんで切りました」
俺はオフになったコールバンドをマスダに示す。作業開始のリマインダーが、三度スヌーズ的抵抗をしてきた段階で、俺はコールバンドのスイッチをオフにした。ゴミ漁りにだって、それぐらいの自由は認められている。でなければ、今以上に悲惨な気分を味わっていただろう。
俺の率直な答えを聞いても、マスダの表情は変わらなかった。ニヤニヤ笑いを浮かべている。奴はずっとそうなのだ。この状況に慣れてしまっている。楽しんですらいる。その点においてのみ、マスダは俺よりも優れているのかもしれない。少なくとも、俺はこの状況を楽しんではないし、しようとも思っていない。しかし、実際やることと言えば、こうして休憩時間を逸脱して、空想にふけるだけだ。そして、この区画には同じような奴らがごまんといる。システムに従順ではいられないが、かといってすべてに反抗して新しいシステムを立ち上げる気力もない。そこにあるのは、ただ流されたくないという焦りに似た気持ちだけだ。そんな人間は他の人間に対してろくでもない振る舞いをする。足を引っ張ったり、高圧的な態度をとってしまう。そんなどうしようもない人間たちの行き着く先が、この区画というわけだ。
古い本に、「内平かに外成る」と書かれているのを読んだことがある。国の内側だけでなく、その外側にも平和が広がっているという意味らしい。まさにAIが目指した世界の在り様だ。そして、たしかに世界はその通りになった。すべてが壁で区分され、それぞれの内側に平和が訪れている。争いの種となる差異をすべて外に追い出しているのだから、当然と言えば当然かもしれない。
それが、Aiが規定したこの世界の正しい在り方なのだ。そして、誰もがそれに納得している。むしろ、それ以外の世界を想像できなくなっている。
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さっさと作業に戻れよ、とだけ言ってマスダは去っていった。それが奴の仕事だ。逸脱者を見つけて、注意すること。誰かを罰することもなければ、評価もしない。そんな責任ある仕事を奴は望んでいない。「俺は、リーダーぶるのが好きなんだ」とマスダはよく言っている。実際にリーダーになりたいわけではない。単にそれっぽく振る舞えればそれで満足なのだ。AIは、それに適した仕事をあつらえた。俺たちにしたのと同じように。
AIは、人間の幸福のために行動するようプログラミングされているので、俺たちのようなグズだって、放り出したりはしなかった。いっそ無慈悲に殺されていた方がよかったんじゃないかと思うことすらある。そうすれば、少なくとも何かを憎むことはできただろう。しかしAI様は、そんな醜い感情を持つことをすらも禁止した。そして俺たちは、俺たちの性質に見合った仕事を割り当てられて生きている。いや、生かされている。
ゴミ、ゴミ、ゴミ。
お前たちにはゴミだまりがお似合いなんだと、AI様から告げられているわけだ。その視線には侮蔑も嘲りもない。日差しのように真っ直ぐで虚無な視線だ。胸くそ悪いったらありゃしない。
ゴミ集めなど、自足型ドローンにやらせればはるかに早いし、何よりコストがかからない。こんな仕事だって、俺たちには給料が支払われている。しかし、AI様はお偉いので、ちゃーんと知っているのだ。低コストを追求しすぎると、不具合が生じてしまうことを。だからこそ、ゴミ集めしかできないような人間のために、ゴミ集めの仕事をあつらう。見事としか言いようがない。
奴らは、俺たちを放置していたら、すぐさま自暴自棄に放蕩しはじめることも理解している。俺たちに必要なのは、自由なんかじゃない。仕事なのだ。少なくとも奴らはそう考えているし、俺以外の人間も概ねそのように理解しているらしい。まあ、こんなくだらない仕事をやって給料がもらえるんだから、考えようによっちゃ悪くない生活だとも言える。酒も飲めるし、たまに女も買える。そうやって日々を潰していくのだ。AI様に見守られながら。
俺の半分は、それでいいと思っている。だから、逃げ出さないのだ。だいたい逃げ出してどこに行くというのだ。俺たちは壁を越えることができない。たとえ越えられたにしても、IDなしで生活することは困難だ。今の世界には、捕獲して食べられるような野生動物はどこにもいない。工場から運ばれてくる加工食品だけが、俺たちの生命を支えている。
ポーンという軽い告知音が、スイッチをオンに戻したコールバンドから聞こえてきた。
そろそろ新しいゴミが流れ着く時間だった。
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engage
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ゴミ着き場には、まだ誰もいなかった。いくら新しく流れてきたとはいえ、ゴミは所詮ゴミだ。そこら中に積み上げられているまだ掘り起こされていないゴミと違いはない。わざわざ新しいゴミを求めてやってくるのは俺くらいなものだろう。
新しいゴミはいつものように混沌としていた。その姿はゴミ山のようであって、ゴミ山のようではない。多くの手が入り、掘り起こされた後のゴミは正真正銘のゴミ山という感じがする。いささかでも使えるものは俺たちが発掘するから、そこに残るのは本当にどうしようもないゴミばかりだ。不思議なことに、そうして残るゴミはいつものように同じ顔ぶれである。まるで俺たちみたいじゃないか。似通った場所には、似通った奴らが集まる。そして誰にも見向きされることはない。
昔拾った本の冒頭に気の利いたことが書いてあった。”幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。” だったらこのゴミの山は幸福なのだろうか。そうなのかもしれない。
カメラがありスコップがありネックレスがありカバンがあり壁紙があり袋があり帽子があり古びた雑誌があり日記がありタオルがあり送風機があった。奇妙な組み合わせだ。個性的と言ってもいい。この山もいずれは掘り起こされ、その辺のゴミ山と変わらなくなる。
俺は古びた雑誌と日記を拾い上げた。どちらも本ではないが、俺にとっては立派な読み物だ。特に古いものほど失われた世界についての記述が見つかる可能性が高い。そうでなくても、他の区画についての情報くらいは手に入る。そんなことを知ってどうなるのかは俺にはわからない。ただ、分解するしかない家庭製品や肉体労働にしか使えない道具を拾うよりも、俺によっては有益なだけだ。
俺たちゴミ拾いに、客観的有効性など求められてはいない。そもそも、しなくてもいい仕事をしているのだから当然だろう。
さらなる本を求めてゴミ山を歩き回っていると、ガシュ、ガシュ、という微かな物音が聞こえてきた。先客がいたのかと待ち構えていると、急に目の前に人形が転がってきた。
美しい人形だった。
いや、あの人形は動いてはいないか。
まさかこんなところにいるはずはない、という思い込みがあったからだろう。それが人間の子供であると認識するのに随分と時間がかかった。しかし、ひとたびそう認識すればそれは紛れもなく人間だった。人間を模したアンドロイドではない。その強すぎる瞳が人間の人間たる人間性を主張していた。
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他にできることもないので、俺はその子供に話しかけた。
「おい、大丈夫か」
返事はない。よくみると、腕にコールバンドが見当たらない。俺は自分のバンドを指さした後で、子供の腕に指を向けた。しかしぶるぶると頭を振るばかりだ。持っていないのか。だとしたら言葉は通じない。そもそもIDを持っていない可能性すらある。いや、さすがにそれはないだろう。この区画でIDを添付されない子供はいないはずだ。
もしかしたら、どこかの高位区画からゴミと一緒に流れてきたのかもしれない。そうした区画では人間を管理するためのコールバンドが使われていないらしい。それならば話はわかる。しかし、人間がゴミとして流れてくること自体が異常事態なのだ。
それ以上考えても仕方がないので、俺は本から掻き集めた知識で、なんとかハイソな言語を構成した。
「Hey!Say!」
大声で繰り返すが、子供はぽかんとした表情を浮かべている。クソッ、これでは言葉が通じていないのか、それとも俺が無意味な高級言語を発しているのかの区別がつかない。他の言葉はないかと考えていたら、何かが俺の耳に侵入してきた。音だ。それも区切りのある音だ。それは「Where is this」という声だった。
あまりにもか細い声だったので、本当に目の前の子供が喋っているのかがわからなかったが、この状況で言葉を発する存在は目の前の子供しかいない。そのとき急に目の前の子供が少女であることに気がついた。それも美しい少女だった。顔立ちは幼少期特有の中性性を帯びてわかりにくいのだが、声にははっきりと女性の響きがあった。
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相手が高級言語を話すとわかっても、その中身まではわからない。断片的な知識しか持たない俺では会話は不可能だった。
「何言っているかわからん。他に言葉は喋れないのか」
開き直っていつもの言葉で俺は叫ぶ。両手を挙げ、首を横に振るジェスチャーつきだ。最後に頼りになるのは、なんといってもボディーランゲージだ。
どんな反応が返ってくるのかと期待していた俺は、少女が真剣な眼差しでこちらを見つめているのに驚いた。そして、ぶつぶつと小さい声で何かを呟き続けている。「…なに──いってる、の、か、…わから…ん……──ほかに……」
どうやら俺の言葉を反芻しているらしい。自らの言語として理解しようとしているのかもしれないが、残念ながら俺が喋っている低級言語と、彼女が話す高級言語とには共通点がない。語順も語彙も、基本的な文法すら違っている。せめて彼女がバンドをしていれば、そのことを伝えられたのだが、そもそもそれがないからこのような状況に陥っているのだ。
とりあえずマスダに連絡するか、それとも管理センターのAIに報告するか。
いくつかの対応が頭に浮かんだが、俺の心はそのどれにも賛成していなかった。こちらを見つめ続けるその少女を、俺も見つめ返す。印象的なのはその瞳だった。彼女のような瞳は、これまで見たことがない。AIが宿るアンドロイドは、どこまでも無機質だったし(人間と区別するために、あえてそのようにデザインされているらしい)、同じ穴ぐらの住人たちは、誰もが諦観と酩酊が交じり合った目で笑い合っている。吐き気がするくらいに濁った目だ。もちろん、俺もそんな目をしているのだろう。
少女の目は違った。何がどう違うのかは説明できない。しかし、そこに俺たちとは違う何かが宿っていることははっきりとわかった。温かい。俺の心を掴んではなさいその瞳には、ぬくもりがあった。胃を焼くような酒が持つ熱さとは違ったエネルギーだ。
俺は彼女を自分の寝床へ連れ帰ることにした。やっかいごとになるのは目に見えていたが、それでもそれ以外の選択肢はないように思えた。それに、俺たちはゴミ漁りだ。有益だと感じるものを、自分の所有物にすることがAIに認められている。だったら、このゴミの山で拾った少女だって同じだろう。
それが言い訳に過ぎないことを知りつつも、俺は彼女の手を握った。その手は、瞳が宿す眼差しと同じくらい温かかった。
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envy
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IDを持たない子供と生活するのは、思ったより難しくなかった。衣類はゴミの山からいくらでも見つけられたし、食事は俺の毎日の配食を多めに申請すれば事足りた。もともと小食なので、子供ひとりぶんの食事ならそれで十分だった。
最初は不安だった。これまでカロリー変更の申請をしたことなどない。余計なことをしてAIの目を引くのではと気が気ではなかった。そこで俺は、規範書を徹底的に読み込んだ。そこにはカロリー変更申請についての記載もきちんとあった。過剰摂取にならない範囲であれば、平均摂取カロリーを上回る食事でもAIは許可してくれる。そう、俺たちには太る権利もあるのだ。なんと素晴らしい。とはいえ、あまりにカロリー変更を上の方に繰り返していると、やがてはここではない区画に移されることになる。AIは、俺たちを罰しはしない。区別するだけだ。
その子供と幾日か生活をして、おそらく彼女は捨てられたのだろうな、という思いが強まった。なんといっても彼女は利発だった。いや、そんなものではすまない。天才と呼ぶにふさわしい頭脳を持っていた。
俺の言葉を何度か反駁することを繰り返した後、いつのまにか彼女は低級言語を話せるようになっていた。見たところ5〜6歳くらいで、俺の記憶がたしかなら、その年齢の子供はようやく断片的な単語を口にし始めるところなはずだ。しかし、彼女はもうすっかり流暢に話せるようになっていた。
「今日はどこに行くの?」
「ゴミ捨て場だ。他にどこがある」
「そう」
そう言って彼女は俺の寝床で本のページをめくり続けている。所狭しと並んでいる本や雑誌、そしてすり切れた日記たちは、すでに彼女に読破されてしまった。俺ですら未読の本が山ほどあるのに、彼女の手にかかれば砂山のように簡単に崩れ去っていく。彼女は貪欲に書物を欲し、そのたびに言葉と知識を蓄えていった。もはや、話し相手としては彼女の方が優位かもしれない。その才能に、俺ですらゾッとしてしまう。高級区画に住むような奴らだったらどうだろうか。才能を褒め称えるのではなく、むしろ異端であると忌み嫌うのではないか。それはありうる話だった。
俺は彼女を残して、ゴミ捨て場へと向かった。
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今日の収穫は二冊の本と、雑誌とノートだった。ノートは意味不明な数字が書き込まれていてまるで理解できなかったが、雑誌と本は低級言語で書かれていて、珍しく俺が最後まで読み通せるものだった。ありがたい。彼女は喜ぶだろうか。すでにどちらの言語でも読み書きできるので、別段気にはしないだろうが、それでも読み物が増えれば、表情に乏しい彼女でもはっきりとわかる喜びがいつも顔に表れた。
俺は、自分が他の誰かのことを考えて嬉しくなることに意外な感覚を覚えた。ゴミ漁りにとって他人は競争相手でしかない。なるべくは争わないようにテリトリーをずらし、どうしても重なるときにはできるだけ早くゴミ漁りにでかけて必要なゴミを獲得する。毎日が、そういうゲームの繰り返しである。奴らは俺で、俺は奴らなのだ。
でも、彼女は違った。彼女は俺ではなく、であるからこそ、彼女に微笑んで欲しかった。俺は少しずつとち狂っているのかもしれない。そんな感覚はまるでないが、狂人は自覚を持って狂っていくとは限らない。それは病気ではないのだ。それは変移であり、地面がまるごと動くようなものである。地面の上にいる人間がそれに気づくことはない。きっとAIは、懸命にこの変移を防いでいるのだろう。それはとても良いことのように思えてきたが、確信はなかった。
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家に帰って収穫物を見せると、案の定彼女は嬉しそうな笑みを浮かべた。俺の杞憂はその瞬間にすべて消え去った。これでいい。一体他に何が必要だというのか。俺は言った。
「名前、何て言うんだ。あるんだろう」
「母親と呼ばれる存在から名前を呼ばれた記憶はない。だから好きに呼んでいい」
「そうは言ってもな……」
「名は、人が誰かに贈り与えるもの。自分でつけるのは変」
きっぱりとそう言い切る彼女は、何かを期待している風でもあった。さんざん迷ったあげく、俺はジーニーと呼ぶことにした。何かで読んだ精霊の名前だ。彼女にピッタリだと思った。
彼女はジーニーと繰り返し、その後で「綴りは?」と尋ねてきた。俺は意味と音の響きだけで綴りのことはまったく考えていなかった。低級言語ではジーニーでいいが、高級言語だとそうはいかない。答えを返せないままでいると、「じゃあ、Genieでいいかしら」と彼女は言った。六歳児に気を遣われてしまったが、反論はどこにもなかった。
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endeavor
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やがては終わりが来るだろうと考えていた。こんな生活は長くは続けられない。幸い、ゴミ漁り連中は何も言わなかった。彼女を見かけても、そんなものはありはしないという風に振る舞った。俺に気を遣ったのか、それとも腫れ物のように感じていたのかはわからない。ともかく、そのルートからAIに発覚することはなかった。しかし、終わりは別の角度から突然にやってきた。
「管理センターに行きます」と彼女は言った。いきなりだった。俺は何の準備もしていなかった。
「行ってどうなる」
「どうなるかはわかりません」
苦し紛れの反論は、ほとんど意味をなさなかった。
「ここが嫌になったのか」
「そうではありません。ここに長く居続けるとあなたに著しい迷惑が発生することを確信したのです」
「そんなことはわかってやってるんだ」
「いいえ、わかっていません。あなたは状況を楽観視しすぎています」
「なぜそんなことがわかる」
「……わかるから、わかるんです」
最近彼女がよく使う言葉だ。自分の説明が相手に理解されないことを理解しているのだろう。そして、その理解はおそらく正しい。数日で低級言語をマスターしてしまった彼女と俺の差は、もはや手の届かない距離になっている。
「行ってどうなる」
「少なくとも、あなたに害が及ぶ可能性は皆無になります」
繰り言に対して、彼女は違った答えを返した。
「そんなことはどうでもいいんだ」
「どうでもよくありません。少なくとも、私にとってはどうでもよくありません」
彼女の決意は固く、理屈で言い負かせることは俺には不可能だった。彼女は明確な理路を辿り、今の答えと至った。鎧で身をかためた騎士のようにつけいる隙はどこにもない。
「わかった。だったら、俺も一緒についていく」
それが唯一俺に残された選択肢だった。
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思えば管理センターに来たのは初めてだった。存在自体は周知されているし、そもそも中央に高々とそびえ立っているので忘れることはありえない。それでも、繰り返す日常の中で、AIに直接何かを言わなければならない機会はほとんどなかった。それは平和なことであり、異常なことなのかもしれない。
入り口のセンサーにIDをかざすと、エントランスの扉がスッと開いた。俺はジーニーを見て、にやっと笑った。ほら俺がいてよかっただろう。彼女は不機嫌ながらも、微かに頷いた。
当初彼女は反対した。自分ひとりでいかなければ意味がないと。自分のことを匿った誰かがいたことをAIに悟られてはいけないと。俺は、それこそがもっともいけないことだと力説した。おまえが嘘をつくことを、AIは決して良くは思わないだろうし、それは今後のお前の処遇に強く影響してくると。俺は一番最初に用意した「ゴミ漁りの権利」を持ち出すことができたし、その理屈が通じるか通じないかは別としてそれは嘘ではなかった。嘘ではないことは、この世界ではとても重要だった。嘘はAIを混乱させ、ときにエラーを引き起こす。何が起こるかは誰にもわからなかった。少なくとも、俺たちはそのように認識していた。
「ゴヨウケンハ、ナンデショウ」
人間を模したアンドロイドが俺たちを出迎えてくれた。虹彩のない瞳は、単調なブラックホールのように人の意思を吸い込んでいたが、少なくとも音声だけで会話するよりははるかにマシだった。
「彼女について説明させて欲しい」
ID認証をしたのが俺だったので、アンドロイドの顔は俺の方を向いていた。だから俺はこれまでの経緯を包み隠さず報告した。ジーニーはその間ずっとアンドロイドを凝視していた。俺は彼女の手をぎゅっと握っていた。
「ワタシデハ、ハンダンシカネマス。シバラクオマチクダサイ」
わざと抑揚を押さえた声でそのアンドロイドは答えた。どうやら〈上級審問〉にかけられるらしい。実際AIたちがこれを何と呼んでいるかは知らないが、人の区画移動を決定するその会議を俺たちはそう呼んでいた。とは言え、時間はかからないはずである。彼らの決定はいつだって秒単位だ。人間とは違う。あるいは人間だって秒で決めているのかもしれないが、それを受け入れるのには時間がかかる。
「ケッテイヲ、オツタエシマス」
一分も経たないうちに、アンドロイドは口を開いた。
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「彼女は、区画G3に移動となります」
次にアンドロイドの口から流れてきたのは流暢な低級言語だった。AIが入れ替わったことを示すためかもしれないが、あまりのギャップに驚いてしまう。逆にジーニーは、納得の表情を浮かべていた。
「G3とはどこだ。そこにはどのような人々が集まっている」
少なくとも俺の知識の及ぶ限り、頭にGを持つ区画は2までしかないはずだった。俺の知識の外にある区画は想像もつかない。しかし、彼女が行くことになる区画についてはぜひとも知りたかった。
「G3は、現在建設中の区画です。あと一週間後に完成する予定です。彼女はそこの第一住人となります」
「第一住人? ということは、その後も人が集まってくるのか」
「その予定ですが、現在候補はいません」
「どういうことだ」
「彼女ほどの天才は類を見ないので、彼女のために新しい区画を作るのです」
俺は頭が痛くなってきた。彼女はどの区画にも適合しないほどの天才だと言うのか。しかし、これまでの体験を振り返れば頷けた。彼女は頭が良いというレベルではとても収まりきらない。彼女ならまったく新しい三つ目の言語ですら作り出しかねない。それほどの才能が、凡人に交じり合うことは不可能だろう。
「決定は以上です。一週間後に迎えを送ります。それまではこのバンドをつけてください」
そう言ってアンドロイドは小さなバンドを差し出した。優しく提案されているが、逃がさないぞ、という意思表示だろう。ジーニーはバンドを受け取り、諦めたようにそれを腕に巻いた。まるでこの展開を見通していたかのようだった。
「俺はどうなる?」
「処置は特にありません。あなたはご自分の権利を行使しただけだと判断しました。これまで通りの快適な生活をお続け下さい」
これまで通りの快適な生活。はっ、笑いすぎて腹筋がねじれそうになる。
「提案がある」と俺は言った。「俺もその新しい区画に移動させてくれ」
これまで流暢に受け答えしていたAIの反応が一瞬だけ遅れた。俺も自分が何を言っているのかよくわかっていなかった。人間が、自分から区画移動の申請をする。そんなのはありえないことだった。区画の移動はすべてAIが決定し、人間はただそれに従うだけ。それは太陽が昇り、雨が空から降るのと同じくらい当たり前のことだった。
「あなたは、その区画に適合するとは思えません」
「そんなことなぜお前にわかる。いいか、その区画はまだできてすらいない。住人すらいない。適合するかどうかを決める材料はどこにもない。ちがうか」
AIが口走った「思えません」という言葉を俺は聞き逃さなかった。彼らは何も思ったりはしない。確実に断言できるほどのデータが揃っていないとき、その推測を示すために「思う」という言葉を使う。それが出てきた時点で、彼らの言葉について彼ら自身が確信を持っていないことは明らかだった。
AIは、不自然なくらい長い沈黙に入った。そして、答えた。
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「ここが新区画か」
俺とジーニーは、増床されたばかりの区画に降り立っていた。俺の区画とは違い、どこにもゴミがない。それどころかまともな建物ひとつない。今から俺たちがドローンに指示を与え、望む形の建物をここに作っていく。それが俺たちに与えられた新しい仕事だ。
「まずは何を作ろうか」
「腰掛けるベンチを作りましょう。旅人をねぎらうために」
彼女はこの場所を区画のエントランスと決めたようだ。悪くない。これから100年は新しい住居者が訪れることがないにしても、玄関を作っておくことには意味があるように感じた。さっそくドローンが仕事を始め、数分後に俺たちは一緒にベンチに腰掛けた。
結局AIは俺の提案を肯定してくれた。だからこうしてジーニーと横に並んでいられている。AI自身が語ってくれたことだが、ここ数世紀において、みずから区画移動を申請した人間は俺だけだったようだ。審議のためのサブルーチンもメモリから解放されて久しく、そのアドレスを見つけるのに時間がかかったらしい。審議自体は一瞬だった。異様なるものは異様なるものたちと。俺は、人類にとって数世紀ぶりの主張をAIにしてみせることで、ジーニーと同じくらい変わった人間であることを認めさせたわけだ。そのことが嬉しいのか悲しいのかはわからないが、今は隣にジーニーがいるだけで十分だった。後のことは、後で考えればいい。
区画の移動は一瞬だった。名残も見送りも何もない。誰も新しいゴミに興味を示さないように、去りゆく俺たちに関心を持つ人間もいなかった。ただ、マスダだけが自らの職務とばかりに最後の挨拶に来てくれた。いつもと変わらぬニヤニヤを浮かべたヤツは、「これでせいせいするよ」と軽く笑っていたが、その瞳はいつもとどこか違っていた。俺は少しだけマスダのことが好きになった。でも、お別れの時間だった。
そうして俺たちはこの区画へとやってきた。他のどことも違う、この新しい区画へと。
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この区画のルールは、まだ何も決まっていなかった。AIは、区画によって制御の仕方を変える。俺のような自堕落なものが集まる区画では細かく規律が決定され、克己心溢れる人間が集まる区画では自治に任せる。ここでは、まだそのどちらが良いのかも見定められてはいない。あまりにもデータがなさすぎる。だからAIは俺たちに委ねた。どうすればいいのか自体を、俺たち自身が見つけ出すのだ。
AIは俺たちを罰しない。ただ適切な場所へ移動させるだけだ。本人がその場所を適切だと望むならその場所に、何も望まないのならAIが計測する適切な場所に。まったくたいした奴らではないか。そんなこと事前に説明すらされなかった。そのことを問い詰めた俺に対して、「モトメラレテ、イマセンデシタノデ」とわざと抑揚を押さえた声で答えたAIは、きっと痛いところ突かれていたのだろう。ゲームのルールを知っておくことは、いつだって重要だ。
新しい区画は清々しい空気に満ちていて、それだけで気分が良くなったが、その代わりもう古い本は手に入らなくなった。この場所には、どこからもゴミが流れてこない。ゴミを受け取れるのは、ゴミ漁りたちだけなのだ。これからは、自分で新しい本を書いていかなければならない。
そんな人生を歩んだやつは、俺以外の誰もいないだろう。異様も異様、異色も異色の存在だ。だったら俺は不幸なのだろうか。大作家先生に言わせればそうなのかもしれない。でも、今必要なのは俺の言葉だ。墓の中にいる人間の言葉ではない。たとえそれが最終的にはゴミになるにしても、俺は自分の言葉を接いでく必要がある。そうでなければ、この区画に居続けられない。
「そろそろ行こうか」
「はい」
俺たちはベンチから立ち上がり、これから町になるべき場所へと向かった。彼女が建物を作り、俺がルールを作る。はぐれものたちが作る、はぐれものたちのための区画。俺は予感していた。きっと少しずつではあるが、他の区画からこの町に流れ込んでくる奴は出てくるだろう。どうしても周りに馴染みきることができない人間。それをこの町が集めるのだ。
俺は苦笑してしまった。結局、場所が変わっても、やることは変わっていない。AIの俺への理解は決して間違っていなかったのだ。ただその実装が、俺が求めるものとは違っていただけだ。
不思議そうにこちらを見つめるジーニーに笑いかけ、俺は新しい町のルールについて考え始めた。
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