食べ物におけるパターナリズム
なぜならおでんは、はんぺんやかまぼこといったそれ自体はとりたてて味を持たない具材に対し、めちゃめちゃに味の濃いつゆを染み込ませることでなんとか味のある状態にしているという構造を持つからだ。
おでんにおけるつゆとは、チームメイトが頼りにならないから自分が全部支えてやらなければ…といって一人でなんとかしてしまうリーダーである。中の具材たちは特にチームに貢献することはなく、一方的な受益者として存在している。そこに主人と奴隷のような相互依存の関係が成立する。
なので、私はおでんの好きな具材を聞かれると困ってしまう。なぜなら私にとって、おでんの中で仕事をしているのはつゆだけだからだ。したがって好きな具材も何もあったものではない。
ただひとつ、牛すじなんかは数少ない仕事をしている具材と言えそうだが、そう思ってしまう人はたぶんおでんというより牛すじ大根を食べた方が良いと思う。
------
私はものを食べるとき、概してこのように「こいつはみんなを引っ張っている」「こいつはモブキャラだ」「こいつは "弱い" 食材だからおんぶにだっこで引っ張ってやらなければならない」といった計算を無意識に行っているようだ。食べ物の中にはパターナリズムがある。
というか食べ物に限らず、およそ「ものとものの間の調和」を考えてるときは、そこについ政治的な概念が飛び出してしまいがちなのかもしれない。 #美 と政治の間には繋がりがある。「個人的なことは政治的である」ってフレーズもあることだし。 調和というものを味という観点からのみ一元的にとらえる態度が偏食の根源なのかもしれない。