認知資源は財産であり権利である
最近思ったのだが、どうも自分は「自分の認知資源を何に使うか」を決めることを重要な権利だと思ってるらしい
「人間は自分の認知資源を何につかうのかを選ぶ権利がある」といったところだ
したがって、認知資源を不本意なものに使わされるのは自分にとって「権利の侵害」ということになる
携帯電話の料金を過剰に複雑にしたり、NISAや投資をしないと老後暮らせない状態になったりすることは(物理的なお金の問題である以上に)「私の認知資源という財産に対する侵害」だと感じるらしい
なので、そのような(人間の認知の限界を突くことで回ろうとする)社会制度は #AI でどんどん代替可能になってほしいし、そういうものが破壊された方が人間は自由を取り戻せるのではないかと(うっすら)思っているようだ 「私はこんなものに頭を使いたくないので、営みごと無人化されるべきである」
『アリとキリギリス』でキリギリスが負けたのは、労働が自動化されていなかったからだ
とはいえ、別に私は特定の認知的営みに優劣があると主張したいのではない
だからこそ、あくまで根底に置かれるべきほ「誰もが認知資源を自由に使う権利」であって、「高尚な認知と低俗な認知」を客観的に決めることではない
後者はいわば認知リソースに対する「バラモン左翼」とでもいうべき態度にあたる
こういう風に、技術を肯定して社会変革をしようというのは「 #加速主義 」的な思想に見えるが、そうなのだろうか? #政治 いわゆる加速主義は現状の資本主義システムを否定せずに加速させようとしているが、私はどうか
私はいわゆる左派加速主義にはまぁまぁ共感を覚えるので、実際そうなのかもしれない