考察は好きだが批評は嫌いという観念について
(2025-11-21追記)三宅香帆さんがこの話を明確にしてるのでもうそっち聞いたほうがいいです
https://open.spotify.com/episode/56IC8etD8xlsFhvILzKegk?si=24a3140ef7b54eab
適当に主語のでかいことを言うが、ある種の #オタク は批評や評論家と呼ばれるものはうっすら嫌いだが(私もそういう気持ちはある)、一方で作品の「考察」をしたりそれを読むのは好きだったりする。 これは同族嫌悪では説明がつかない(もし同族嫌悪であれば、他のオタクの考察を読むのも嫌いであるはずだからだ)。
#インターネット で自分自身は考察をひたすらやっているのに、批評家や評論家は嫌いという考えの人は珍しくない。 ここに何の違いがあるのか。彼らは二枚舌を使っているのか(そうでないとしたらその理由はなにか)?
評論家と呼ばれる人間が単に若くないので嫌われているだけとは言えるかもしれないが、それなら彼らの「批評」と、相対的に若いオタクの「考察」はどう違うのか?
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簡単に言うと、「考察」はそれ自体が #コンテンツ としての側面を持つ。一方(オタクから見た)批評や評論はその側面を持たない、という点にある。 「考察は好きだが批評は嫌い」という考えの背後には、基本的にコンテンツは作っている人間が(だけが)えらく、そうでない人間は偉くないという価値観がある。そして、この前提のもとでは「批評」は創造性のない行為として(それを理由に)忌避される。
一方、ある作品をまともに読んでいればキャラクターの心情や背景、あるいは物語の背後の思想といったことが気になることはある。この掘り下げをすることに正当性が欲しくなった結果どうするかというと、要するに「考察それ自体に創造性やエンタメ性があれば良いのだ」という方向に行くことになる。
考察は #クリエイター も(作品創造の過程で)やる行為なので良いことだが、批評は作品の創造とは切り離された、したがってクリエイターではない人間が外からやる行為だという区別が持ち込まれる。 『ヨイコノミライ』の天原くんを殴りたい気持ちが膨らみすぎて頭がおかしくなったとしか思えないような発想だが、そう考えると説明がつく(人間はスカッとジャパンから逃げられないのでしょうがない)。
以上が、「批評」と区別される「考察」という単語がわざわざ要請される理由である。
考察や批評はそれ自体が創作(つまり作品として読めるほどの面白さを持たなければならない)という暗黙のルールがオタク側にあり、この前提を共有しないで書かれた「批評」や「評論」は倫理的に問題があるように見えている。それは「コンテンツを作っている人間がえらい」という価値観を脅かす。「創作者でない人間はおとなしく消費者でいれば良いのに、あろうことか創造性もない批評をするとは何事か」と。