外向けのアイデンティティ
たとえば、いわゆる「洋楽」が好きな人は自分のことを「洋楽好き」だと思っていない。
なぜなら「洋楽」とは「(邦楽と対比された)海外の #音楽 」を漠然と指すのに使う言葉であって、「J-POP以外よく分からない」という人に自分の趣味をごまかしながら説明するとき専用の言葉だからだ。 実際に欧米圏の音楽が好きな人は、たとえば「90年代のオルタナティブロック」とか「UKのクラブミュージック」とか「北欧メタル」に帰属意識を感じるのであって、
それを言うなら逆に極限まで主語を拡大して「音楽好き」を名乗る人のほうがまだ多いように見える。
(これはこれで、「ジャンルから自由になりたい」という別の面倒な意識が隠れていそうだが)
これと同じことは「IT」という言葉にも言える。
実際にIT企業に務める人は、たとえば「Webの仕事をしている」とか「ゲーム開発をしている」とか「組み込み機器のエンジニアをやっている」というアイデンティティを持つのであって、
「IT業界」なるものに帰属意識をもってる人などほとんどいないのではないか(と思っている)。
それを言うなら逆に極限まで主語を拡大して「技術が好き」「ものづくりが好き」と言う人の方がまだいそうだ。
親戚向けに自分の #仕事 をごまかしながら伝えるときに「IT」という言葉は便利だ。しかし言ってる本人は実は自分のことを「IT業界の人」だと思っていない。 そういうわけで「IT」と「洋楽」は外向けの言葉、いわば素人向けに仮構したアイデンティティであるという点で似ている(同じ問題は「OL」とかにもある)。
中ぐらいの大きさの主語は、外からの見え方を表すのにしか使えないのであって、当事者にとっては何らアイデンティティの表明に使えるものではないのだ。
極小の主語と、極大の主語こそが有意味なアイデンティティを成す。
そういえばポール・グレアムが『ハッカーと画家』でこんなことを書いていた。
I've never liked the term "computer science." The main reason I don't like it is that there's no such thing. Computer science is a grab bag of tenuously related areas thrown together by an accident of history, like Yugoslavia.
私は「計算機科学」という用語がどうにも好きになれない。 いちばん大きな理由は、そもそもそんなものは存在しないからだ。 計算機科学とは、ほとんど関連のない分野が歴史的な偶然から いっしょくたに袋に放り込まれたもので、言ってみればユーゴスラビアみたいなものだ。
田辺元は『種の論理』という著作でアイデンティティを「個・種・類」の3つに分けたらしい(らしいというのは、実際には私はこの本を読んだことがないからだ)。
「私はf_subalである」のような個のアイデンティティは狭すぎて役に立たないが、「私は人間である」という類のアイデンティティも広すぎて内容がない。
「私は日本人である」とか「私はプログラマである」のような中間のアイデンティティ(種の論理)こそが意味を持つというのがこの本の主張であるらしい(原著では主に国家や民族の話にしぼっているらしいが、実際には読んでいないのでよく知らない)。
ここには、自分をただの「人間」と思うだけでは人類に貢献できないのであって、より大きいコミュニティに貢献するにはそれより小さいコミュニティに帰属意識を感じることで間接的に達成するしかないといった #倫理 的含意があるようだ(何度も言うが私はこの本を読んだことがない)。 いま私がここで言ったことは一見それと真逆(中間のアイデンティティは無意味という主張)に見える。
しかし「私は人間である」というレベルの広さだと流石に無意味というのは同意できるので、敢えてつなげてみると、私は「個と種の境目」と「種と類の境目」こそがもっとも有意味と言ってることになるだろう。