主たる評価基準
だいたいのものには(その存在目的に応じて)「主たる評価基準」というのがある
料理のよしあしにはいろいろな要素がある( 味、盛り付け、香り etc... )が、最終的には「味」が主たる基準になる
極端な例だが「盛り付けが悪いが美味しい料理」はそれで評価を取り返せる
が、逆に盛り付けの良さで味の悪さを取り返すことはできない
これはものに「存在目的」が存在するから
目的が一意でないものには主たる評価基準も存在しない
人間そのものには目的は存在しない
が、人間の職業や役割には主たる評価基準(有能か、巧いか、強いか…)が存在しうる
アイドルの #音楽 のくくり(あるいはユニットの括りとして)「楽曲派」というのがある 実は私は最初この言葉を見たとき違和感を覚えてしまった
思うに、私は音楽ユニットの主たる評価基準を「曲の良さ」だと感じていたから
ので、音楽ユニットに対して「楽曲派」というのを見ると違和感を覚えてしまった
「飯食うときに "味派" とか言わないじゃん」みたいな気持ちが湧いてしまった
「曲が良ければダンスや顔が好きじゃなくても最悪取り返せるが、逆は存在しないので……」
が、アイドルが好きな人は当然そうは思っていないはず
音楽は重要な要素だが、「主たる目的」と認識しているわけではないはず
そもそも「主たる目的」という考えをしてないはず
アイドルグループを「音楽ユニット」としてのみ捉えるのは #還元主義 的な態度である そういう還元主義を超えて一人の人格を「推している」面があるはず
「推す」とは相手を何かの目的のもとに扱わない(相手自身を目的とする)ことである
とかいいつつ、「推し」という概念が流行ったのってアイドルに総選挙とかの概念が持ち込まれたことで起きたような面があるから皮肉だ
主たる評価基準を持ち出したくなったときには #目的論 の専制が働いている どうも自分はこの傾向が強いっぽい
ビールに対して「舌に載せないほうが美味しいってことは、つまり不味いってことじゃん」となった話
これは飲みものの価値を味、特に舌で飲み感じるそれに還元している
逆に言うと、酒は #食 における価値(=目的)を脱構築していることになる 「曲が気に入らないならいくら歌詞が感動的でもしょうがないのであって……」
これはメロディに、あるいは編曲に音楽の価値を還元している
こう言いたくなってしまうのは、この世には歌詞のない曲も大量にあるから
そこに「主」かどうかを分ける余地が入ってしまう
「好きなポケモンで勝ちたい」とかは目的論への拒否である
「マイオナ」とはそれに対し、目的論( = 主たる評価基準 )を前提にした非難である
生き物や人間に近い分野は目的論への拒否が発生しやすい
これがいわゆる貴族道徳と奴隷道徳の対立となって現れる