プラレールよりトミカのほうが本物に近い
私は子供の頃、プラレールの線路が青かったり電車の車輪が黄色かったりすることを以て「プラレールはトミカに比べて嘘である」という考えを持っていたような気がする。
トミカはプラレールと違って電池では動かないが、見た目のデフォルメはプラレールより少ない(内部はともかく外身については)。ボディは金属の光沢を持ち、ドアはちゃんと両側が開き、道路との縮尺もある程度現実に近い。
すると当時の私は、「車のように動くという機能」ではなく「車っぽい質感を持っていること」こそがミニカーの本質であると考えていたことになる。
しかし、実際の車の本質は明らかにその見た目ではなく「動く」という機能の方である。
だとすると当時の私は倒錯した考えを持っていたことになるだろうか?
必ずしもそうは言えない。なぜなら、おもちゃの車は遊び手である子供が自分で動かすことができるからだ。
ミニカーにおいて、動くという機能は手動で代替可能である。
したがって、「自動で動く」という機能はミニカーにとっては本質的ではないと言える。それは子供が想像力を持って補完すべき挙動であるからだ。
質感が機能よりも本質的であるという考えは一見倒錯しているが、玩具の目的が想像力を働かさせることにあるのだとすると、より想像力を駆動する「質感」こそがミニカーの本質であるという考えはそんなにおかしくはない。
ただこれは私の場合の話で、実際に動くことによってこそ想像力が喚起されるタイプの子供にとっては、動くことのほうがより重要な、したがって本質的な機能ということになるだろう。
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VRの分野で、 #ヴァーチャル という言葉は「見た目は異なるが、機能においてはその本質を残しているもの」といったニュアンスを指す。 ここには「見た目は表面的なもので、機能や振る舞いこそがその本質」という隠れた前提がある。
つまり、VR 工学におけるヴァーチャルの定義はかなり「プラレール派」っぽい定義である。
トミカ派にとってのヴァーチャルリアリティと、プラレール派のヴァーチャルリアリティは異なっている可能性がある。