ディストピア飯が人間性を損なうのは「単に味がまずいから」にすぎないのか?
ディストピア飯は錠剤とか培養肉とか、あるいは変な形の食べ物を出すことによって「人間性のない食事」を演出している
しかしディストピア飯の悪いところとしてあがる問題は、実は「まずい食べ物全般」にあてはまるのではないか?
もしそれらの飯が普通に美味しかったと仮定した場合、そこに倫理的な問題は残るだろうか?
たとえば味噌ラーメンと同じ満足感を得られる錠剤(?)があったとしたらどうなるか
無理のある想定だが…
なぜこんな事を考えたのか
BASE BREADのような完全メシが美味しくなく、続かなかった
私は究極的には「味が美味しければ、食事がほぼ毎食同じであっても良い」という考えを持っている方だと思う
しかし単純に味の問題で耐えられなかった
ここでふつうに反省をする人なら、「やっぱり手作りが(あるいはちゃんとした料理を食べるのが)一番なんだ!」と言いたくなりそう
しかし私はそう言いたくはならなかった
むしろ「食事を統一することに対する壁って味の問題ぐらいしかないんじゃないか」という疑問が逆に強まってしまった
なぜなら最初の仮説(「味が美味しければ、食事がほぼ毎食同じであっても良い」)は、単においしくない食事では否定されないから
が、これが正当化可能な考えなのか自分でもよくわからなくなった
なので思考実験をすることにした
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「ふつうに美味しいディストピア飯」なるものを仮定した場合に…
倫理的問題があるよ派
美味しさは味覚だけで決まらないよ派
見た目や香りは食べ物の美味しさの一部を形成してるよ派
食べ物は食べ物らしい見た目や香りをしてるべきだよ派
ディストピア飯は栄養接種に一元化された食事の形象だよ派
食事を手段として捉える態度自体が悪いよ派
inゼリーとかBASE BREADも「同じぐらい悪い」よ派
献立が画一化してる時点でたとえ旨くてもダメだよ派
完全食のカレーを毎日食べる生活にも人間性はないよ派
味覚にはセンスの良し悪しがあるよ派
ディストピア飯を肯定することは、味覚音痴を肯定するのと同じだよ派
気持ちの問題だよ派
料理は愛情だよ派
「美味しくしようという意志」がそれを食べる他者(未来の自分を含む)に対する倫理的行為だよ派
これは愛情と混同されるが、別物だよ派
まずいこと自体が問題なのではなく、それを「標準的な食事」とすることではじめて倫理的問題が生じるよ派
画一化がダメだよ派とだいたい同じ
選択の自由の問題だよ派
自分で選んだまずい飯は、強制されたうまい飯よりも尊いよ派
倫理的問題はなくなるよ派
食べたときに不快感を覚えるかがすべてだよ派
手作りのまずい食べ物も同様に人間性を損なうよ派
ディストピア飯とズボラ飯の差は程度問題にすぎないよ派
味覚は単独でも成立するよ派
目をつぶってても美味しいものは美味しいよ派
香りと味だけが存在すればなんとかなるよ派
問い自体が無意味だよ派
ディストピア飯という単語は「不味い」という意味を含んでいるよ派
単に毎日同じメニューが出るだけではディストピア飯とは言えないよ派