センスのなさの不可能性
日本語で「センスがない」と言った場合、基本的にそれは「センスが悪い」と同義語だ。
(英語でも「has no sense of humour」といった場合、ユーモアのセンスがない=悪いというニュアンスになるだろう)
しかし「良いとか悪いとかではなく、ただ単にその分野についてのセンスが存在しない」ことを表さないのはなぜか。
こういうニュアンスの表現をしたいことって割と普通にあるんじゃないのか。
「センスが存在しない」とは必ずしも「興味がない」とイコールではない。
「ファッションに興味があるが、よく知らないのでファッションセンスが存在しない」という状況は普通に考えられる。
(アンテナがない、といったような意味で)
しかし「ファッションセンスがない」と言ったときそこに「ファッションセンスが悪い」のニュアンスを嗅ぎ取らないのはほとんど不可能に思われる。
先の例でたとえば「私にはまだファッションセンスがない」という言い方をする人がいたらどうなるか。不自然に感じる人が多いだろうか。
あるいは「よく知らないのでファッションセンスが存在しない」という言い方を見たときに、そこに「言い訳がましさ」を感じた人もいるだろう。
さすがに性根が #倫理 と一体化しすぎてて心配になるような考え方だが、たぶん一定数いる。 なぜそうなってしまうのかと言うと、「存在しなさ」と「悪さ」が一体化した概念とはすなわち「規範的」ということだからではないか。
ここには「人間はセンスがある状態を目指すべきである」という規範が前提にあり、ない状態は目指していない状態とイコールである、とつい思ってしまうような。センスには規範性がある。
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ファッションに限って言えば、人間はふつう服を着ない状況がないからというのも関係しそう。
つまり、服は必ず着るものなので、センスがあるかないかにかかわらず必ず選ばなければならない。
結果、「ないセンスで選んでいる=悪い」ということが起きる。
センスとは「物事を選ぶ能力」だが、世の中には回避できない選択がある。
そしてそういう回避できないもの(ファッションとか食事とか会話とか…)こそがセンスの典型例とみなされるがゆえに、
「センスがない」ことは「センスが悪い」ことと同義語になってしまったのだ。