ジャロン・ラニアー『人間はガジェットではない』
誤訳?
「本書に対する反応は、匿名の愚弄とわけのわからない議論という愚かな行為の繰り返しへと堕するだろう。」(p.12)
"Reactions will repeatedly degenerate into mindless chains of anonymous insults and inarticulate controversies."
訂正案:「本書への種々の反応は、恐らくだんだんと酷いものになっていくであろう。匿名での非礼な言動やらいい加減な論争といったものが、愚かな断続性を持って続いていくといった感じでだ。」
(※これはラニアーの言葉か?)
ソフトウェアは、音符とは何かから人間性とは何かまで、あらゆるものについてその概念を表現する。ソフトウェアはまた、 「固定化」というケタ外れに厳格な過程が避けられない。そのため(人間社会の多くのことがソフトウェアで規定されるようになった現在) 、固定される概念が増えている。今までに固定された概念は悪くないものが多いが、いわゆるWeb2.0というものの一部にはどうにもひどいものがある。そういうものは、今のうちに締め出さないと大変なことになるだろう。(p.15)
どうひどいのか?
「深遠な意味を持つはずの人間性が、最近は、ビットという幻想でどんどんお手軽なものになりつつある(p.45)」から
<断片化された個人>とでも言うべき状況で、「他人が活用する断片の源とならず人であり続ける」ことが必要であると説かれる。
※ カントの定言命法「常に一個の人格として扱え」
Web 2.0というイデオロギーは表面的には自由を徹底的に推進するものだが、その自由は、皮肉にも、人間よりもマシンにとっての自由である。しかしそれでも、 「オープンな文化」だと言われている。(p.16)
リモートで使える目や耳(ウェブカムや携帯電話) 、膨大な記憶(細かな情報をオンラインで検索可能な世界)など、われわれは人間という存在を拡張するものを作る。(p.17)
科学とは、経験的に概念を取り除いていくもので、そこには十分な理由が存在する。これに対して固定化とは、プログラミングしやすい、政治的に実現可能である、かっこいい、たまたまなどの理由で設計の選択肢を切り捨ててゆく過程である。
固定化はデジタル的な描写方法として勝算のないものを取り覗く過程だが、それは同時に、その結果、永遠性を与えられる概念を簡略化したり狭めたりする過程でもある。その時、意味内容の境界に存在する曖昧模糊としたニュアンスがそぎ落とされる。そのニュアンスこそ、自然言語で使われる単語とコンピュータープログラムで使われるコマンドと区別するものだというのに。(p.26)
「連続的で具体的」「離散的で具体的」「連続的で抽象的」「離散的で抽象的」
昔々……といってもそれほどではないのだが、ファイルという考え方はあまり良くないと思うコンピューター研究者がたくさんいた。
例えば、テッド・ネルソンのザナドゥはWorld Wide Webのようなものを目指して考えられたものだが、全体を1つにまとめ、巨大なグローバルファイルを作る形になっていた。製品化に至らなかった最初のMacintoshはファイルというものを持っておらず、ユーザーの作ったものがすべて1つの巨大構造として蓄積されることになっていた。(p.31-32)
ファイルの背景にある考え方は、人が表現するものが小さな塊に切り離すことが可能であり、抽象概念の木についた葉であるかのように、その塊を単位に整理することが可能だとするものだ――しかも、その塊にはバージョンがあり、それを操作するアプリケーションとマッチしてなければならない。(p.32)
「サイバネティックス全体主義者」「デジタル毛沢東主義者」
「サイバネティックス全体主義では、コンピューターサイエンスの一部系統で使われるメタファーを、人とをはじめとする現実に適用する。」(p.52)
これは倫理や美意識に寄ってのみならず、「実用主義的な面から(p.52)」も批判されうる。
よって本書では、計算主義、ノウアスフィア、特異点、 web 2.0、ロングテールなど、今、常識とされているものに反する考えを延々と綴る。(p.50)
<今日のデジタル世界では、ビットといった概念のせいで、人間というものが「断片」として扱われやすい状況を生み出している>というのが作者の主張だ。ではその「断片」というのはどのようなものだろうか。「全体ではない」ことは確かだが、断片にもいい断片と悪い断片が恐らくある。ここでは「悪い断片」のみを念頭に置きて、それが広まりやすい状況を嘆いているのだろうし、私も基本的にはその見解に賛成だ。問題は「Web上の断片としての情報や個人といったものを、いい断片(そんなものが存在するとして)にしていけるかどうか、あるいはどのようにしていけるかどうか」という事だ。
「コンピューターと銃では、実存の意味が違うのだ。」(p.56)
「情報とは、体験を遊離させたものだ」(p.60)
コンピューターが登場するまで、人の特性を理解するメタファーには、一般に蒸気機関が使われた。性的な圧力が高まってマシン全体がおかしくなっているのだから、逆のエキス、つまり女性のエキスを与えればバランスが回復し、圧力が低くなると考えられたのだ。これは教訓として捉えられるべき話だ。今、人のモデルやメタファーとしてコンピューターがよく使われるが、その妥当性は当時の蒸気機関と大差ない可能性がある。(p.62)
チューリングテストは、普通、人の意識を有無特性というものをともかくも機械が獲得できる証拠だとされる。確かに、意識があると信じたものが機械だった時、その機械に意識がないとするのは偏狭というものだろう。
しかし、本当のところチューリングテストが示しているのは、機械の知能とは、人間という観察者がそれを認識して初めてわかるもの、相対的な意味でしかわからないものということだ。もちろん、チューリング自身がそう言いたかったとは限らないが。(p.65)
コンピュータには知性があるといわれると、人は、コンピューターをもっと便利に変えろと要求するより、自分の側を変えてコンピューターがうまく働いているかのように見せる傾向が強くなる。コンピューターに敬意を払い、従おうとする傾向はすでにかなり強くなっており、デジタルガジェットやオンラインサービスが使いにくいとき、自分が悪いと思うことが増えている。(p.73)
意識の時間はつながっており、意識から神秘性を取り除こうとすると、おかしな形で時間に神秘性を与えてしまう。(p.84)
例えば、ノウアスフィアを奉ずる設計は、人のうちに住むトロール(悪人)を活性化しがちである。(p.89)
ノウアスフィアに対する批判はただ一つ「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト」だ。
だからデジタルデザイナーは本質的な人の理解度を控えめに判断すべきなのだと思う。賢明なデザイナーは、人が持つ形而上学的な特殊性という可能性の芽を残す。あるいは、ソフトウェアに組み込めるとわれわれが信じる進化などの考え方で説明できない創造プロセスが、今後登場するかもしれないという可能性の芽を残す。このような節度こそ、人間中心の考え方の核である。(p.102-103)
これは、自分をどう規定するのか次第だ。友人のグループについて、その恋愛関係についての情報を受け取っていると、次第に、その情報の流れを元に物事を考えるようになる。言い換えると、この場合も、人が自らを貶め、コンピューターが正確だと見えるようにしている。
「数億人にものぼるソーシャルネットワーキングのユーザーは、サービスが使えるように自らをおとしめている」 、そう言いたいのかと思うかもしれない。まあ、そういうことだ。(p.103)
若い人を中心に、 Facebookで数千人と友達になったと誇らしげに言う人がかなり大勢いる。友人の意味をかなり引き下げなければ、この言葉は出てこない。(p.103)
集団に価値があるのは、その知性もバカさ加減も、個々人のものと異なるからだ。市場というものが機能するのは、集団の知恵と個人の知恵が合体する場だからだ。競争で価格を決めさえすれば市場が生まれるわけではない。その前に、競合する製品が複数のアントレプレナーから提出されなければならない。
言い換えると、賢い個人、すなわち市場のヒーローが質問を投げかけ、集合が行動でそれに答えるのが市場なのだ。牛を市場に持ち込む必要があると言ってもいい。
物事には、個人が答えるべきではないものがある。例えば価格は、 一人の官僚が決めるより、各自が適度に情報を持った集団、特に操縦されておらず、内部における共鳴が暴走してもいない集団が決めた方が優れた結果となることが多い。しかし集団が製品設計を行うといわゆる委員会方式の設計になってしまう。この「委員会方式の設計」が軽蔑表現となっているのには理由がある。(p.108)
「委員会方式の設計」= Design by Comitee
集合知の優れた実例は、私が知る限りすべて、善意の個人に導かれたりその感化を受けたりしている。(p.109)
(スロウィッスキーの集団力学に対して)
私としては、少し付け加えたい点がある。検討する問題を自分たちで選ばないこと、そして、選択肢を選ぶか単純な数字を求めるかと言う以上に複雑な解答形式にしないこと、だ。(p.113)
オンラインに愚行をもたらしているのは匿名性そのものではなく、一過性の匿名性であること、また、因果応報が成立していないことだとわかる。(p.119)
つまり、トロールを召喚しがちな設計とは、 「意見を述べるなど、個人の #アイデンティティ やパーソナリティーと何の関係もないことを目的としたサービスにおいて、報いを受けない形で簡単に一過性の匿名性が得られるもの」ということになる。車で走り抜けつつ銃を撃つようなものなので、ドライブバイ匿名性と呼ぶことにしよう。(p.120) 隠蔽は、セキュリティの基本形態にすぎず、インターネットの登場によって時代遅れとなるようなものではない。広く行き渡った侵害イデオロギーを信じる学者に対しては、隠蔽よるセキュリティを生物学では別の言葉で表現していることを指摘したい――生物多様性である。(p.127)
情報システムを動かすには情報が必要だが、情報では現実の一部しか表現できない。情報が表現できないことできていないことまで求めようとすると、おかしな設計になってしまう。例えば2002年に成立した落ちこぼれ防止法(No Child Left Behind Act)で、米国の教師たちは、幅広い知識を教えるか「試験向けの教育」をするかを選ばなければならなくなった。その結果、教育用情報システムの不適切な使用により、優れた教師ほど低い評価を受けることが増えてしまった。
全国統一試験のコンピューター解析が教育に与えた影響は、 Facebookが友情に与えた影響と同じだ。いずれの場合も、人生がデータベースに変換される。この劣化は、いずれも、同じ哲学的間違いによって引き起こされている。つまり、人間の考えや関係を今のコンピューターが表現できるという考え方だ。どちらも、今、コンピューターにはできないことだというのに。(p.131)
人を取り扱う場合には、全く違う方法が必要になる。我々は、教育や友情といった現象を科学的に理解できるほど深く脳を理解できない。そのため、学習や友情といったもののコンピューターモデルを現実の生活に影響を与える形で使う時、基礎となっているのは信念である。作成したモデルを通じて人生を生きる事を人々に求めるとき、我々 、テクノロジストは、人生そのもの単純化している可能性があるのだ。その時何が失われるかを、いつか知る術はあるのだろうか。(p.132)
「群れは一つしか無い」
他の人たちの体験をどうこう言いたくはないが、ガジェットフェティシズムという新たな緊張の根底にあるのは愛よりも恐れだと思えてならない。(p.133)
クラウドにおいて「メタ」はパワーと同義なのだ。(p.147)
ブログよりも「ブログのブログのブログ」が評価される
ノウアスフィアの旗の下では残念ながらほぼあらゆるものの価値が下落する。価値を保てるものは一つだけ――オープンな文化という虹の架け橋の向こうにあるのは、広告という永遠の春である。促進剤に過ぎなかった広告はオープンな文化によって取り立てられ、人間宇宙の中心となるのだ。
昔、シリコンバレーは今よりヒッピー的で、広告を嫌う空気があった。 Googleという変わり種が登場する前のことだ。我々がひっくりかえそうとしている悪人、旧メディアを象徴する罪だと言われることが多かった。少なくとも、我々が破壊を目論んでいた最強の悪魔、商業テレビの中心であったことは確かだ。
ところが今、広告は、到来する新世界において商業的に保護すべき唯一の表現形態だと言われている。皮肉なことだ。他の表現形態は匿名化してすりつぶし、無意味となるレベルまで文脈から切り離すべきもの。これに対して広告のみが文脈を添えられるし、広告のコンテンツは聖域として保護される。ウェブサイトの脇にグーグルが表示する広告でMashupを作ろうとする人は一人も――繰り返すが一人も――いない。 Googleが登場した頃、シリコンバレーではこのような会話がよく聞かれた。 「ちょっと待てよ。俺たち、広告を嫌ってたんじゃなかったか? 」 「それは古い広告だろう? 新しいタイプの広告はでしゃばらないし、なかなか役に立つよ」(p.152)
>「文化は全てが広告となる。」
ヘルプデスクはナレッジマネジメントやデータフォレンジック、ソフトウェアコンサルティングなども含むとされる。この「ヘルプデスク」こそ、資本主義の先端技術が、完全雇用状態の人類と共存できる世界につながる可能性を持つだと私は昔から主張している。「ヘルプデスクの惑星」と呼ぶシナリオだ。(p.173)
>クラウド的集団主義は個人の創造性に敵対するのか?
ネルソンは、今、幅広く行われているよりも深遠なことを考えていた。デジタルメディアはコピーしない。書籍や楽曲など、文化的表現は原本のみとし、誰かがアクセスするたび、ごくわずかな金額が、その文化的表現をした人に入るようにする。そのような形を提案したのだ。(p.182)
>「個人が報われるシステム」。「集団的でフリーな文化」とは真逆の考え方。
いずれの場合も問題は特定の誰かから何かを盗んだことではなく、経済を機能させるため人工的に作られた希少性を崩してしまったことにある。インターネットにおける創造的表現も全く同じで、情報について一定の希少性を人工的につくる社会契約をした方がメリットがあるのだ。(p.185)
p.195 @ 2013/05/05 17:50