いいねとは何か
私は自分のX(Twitter)のいいね欄は公開されるべきものであり、常に人から見られているという前提でいいねをしている。
なぜなら「いいね」は私のプロフィールの一部であり、私を構成するものだからだ。
裏を返すと、人から見られたくないけど良いと思ったものは私はブックマーク(その他なんであれ非公開にストックする機能)を使うようにしている。
これはたとえば「内容が R-18 だから隠したい」みたいな動機とは限らない。「このいいねは私っぽくないな」と思ったものは、たとえどんなに惹かれたとしてもいいねを押さない(あるいは押した後に平気で取り消す)ということだ。しかしそこに「人目を気にして遠慮する」といった消極的な気持ちはない。もうかなり長いことこういうスタンスを採っているが、あまりそこにストレスを感じていない。
「You are what you eat(人は何を食べるかで形作られる)」という英語のフレーズがあるが、そんな感じで「You are what you like(人は何をいいねするか)」である。いいねすることは、ものを食べるとか服を着るとかに類すべき行動だ。
「いいね」をこのように捉えるとどうなるかというと、いいねをするとき、される相手のことは全く考えないということになる。
私は「相手に好きの気持ちを伝える手段」としていいねを使っていない(そういうのはリプライやマシュマロでやるべきだ)。むしろTumblrのリブログみたいな気持ちでX(Twitter)のいいねを使っている。相手に対してではなく、むしろ公衆に向けて自分の好意を表明する手段であると割り切っている。箱に入れて飾るための手段といえばよいだろうか。いいねならリブログと違って転載みたいな問題が生じなくて便利だしね。
なので、たぶん多くの人がそうであるように「相手に好きの気持ちを伝える手段」としていいねを使っている人からすると、私のこのような考えはひどい態度に映るだろう(実際に、人付き合いの観点ではひどい考え方だと思うが)。 #「消費」という言葉の悪さがいまいちわからない のもこういう態度のせいかもしれない。 一方でこれは(自分で言うのもおこがましいが)、承認で病まないための知恵という面もあると思う。いいねを「相手に好きの気持ちを伝える手段」と捉えるからいいねの数でダメージを受けるのだ。最初からそういう考え自体を放棄してしまえば、そういう形で病むことも減るだろうに(代わりに色々なものを失っている気もするが)。
じゃぁリツイート(リポスト)はどうなんだということになるが、いいねが感情の記録であるのに対し、リポストは表明であると思っている。それは自分の言葉を用いないでなされる発話であり、言語行為である。要するに、はじめから他の人に影響を与えるつもりでなされるのがリポストということになるだろう。
なので私は今日も、人のいいね欄で見かけたものをいいねします。