「清純派」の芸能人には何が期待されているのか
#思考実験 #倫理
よく「清純派の芸能人だって我々と同じ人間なのだから、過剰な期待をすべきではない」という批判が(芸能人が不祥事を起こした際に)なされる
別の言い方をすれば、芸能人には「我々と同じ人間」にふさわしい期待のみをかけるべきだと言っている
しかしこれは裏を返すと、「我々一般人の清純さ」を下回る清純さだった場合は批判をしても問題ないことになってしまうだろう
その人が我々の「清純さ」の平均を下回っていた場合、それは「頭脳派を名乗ってるのに偏差値が50なかった」とか「パワー系を名乗ってるのに握力が20なかった」とかと同じ種類の悪さ(僭称?)があることになる
おそらく批判を止めたい人はそういう意味で言ったんではないとは思うが、だとするとあまり良い止め方ではないように思われる
それでも止めたい人はむしろ「清純派なんて名乗りたくて名乗ってるわけではない」みたいなことを言うしかないだろう
あるいはもっと極端に「人は一般に清純派を名乗るべきではないし、他人のこともそう呼ぶべきでない」みたいなことを言ったほうが良いのではないか
止めたければ「清純派」という概念を滅ぼすしかない
一般に、「正義感が暴走した」ような批判が誰かに向けられているとき、それをたしなめるフレーズとして「完璧な人間はいないのだから」といわれることがある
しかし、これが反論として成立するのはよく考えると不思議だ
なぜなら、そのような批判を受けている人は「完璧でないがゆえに」非難されているのではないからだ
多くの場合、そのような批判は「そもそも普通の人間よりも道徳的に劣っているがゆえに」向けられていると考えるべきだろう
ここで批判者は、たとえば不倫を「普通の人の清純さがあれば行わない行為」と考えているかもしれない
「かもしれない」という理由は後述
またここには暗に、道徳には「平均点」のようなものがあるという前提も隠れている
こうなってしまう原因はいくつか考えられる
1. 批判を止めたい人には、そもそも不倫(たとえば)は「我々一般人の清純さ」の範囲に収まると考えているのかもしれない
一方批判をしたい(すべきと考える)人々は、「不倫をする人は一般人よりも清純さにおいて劣っている」と考えるはずだ
「我々と同じ程度の清純さならまぁ許してもいいが、我々一般人を下回ったらそりゃアウトだろ」というわけである
これはつまり、個別の事件(ここでは不倫)に対してそれが清純さの範囲に収まるかの採点基準で割れていることになる
「こいつが50点であるのはおかしい、本当は30点だろ」と言っている状態だ
2. あるいはもしかすると、「完璧」という言葉の使い方が両者で異なっているのかもしれない
批判を止めたい人は、「完璧」という言葉を「だいたいの分野で平均点を上回っている(平均より負ける分野がない)」ぐらいの意味で使っている可能性がある
しかし批判をしたい(すべきと考える)人々は「完璧」という言葉を「あらゆる分野で100点を叩き出す」という意味で認識しているかもしれない
だとすると批判派は、「俺らは別に100点なんか求めてない。清純さテストで平均点も取れないやつが清純派を名乗るのがおかしいんだ」と言ってることになるだろう
これはつまり採点の基準ではなく、ついた後の点数についてそれを合格ラインとするかの基準で割れていることになる
「こいつが50点であることに異論はないが、50点は不合格でいいだろ」と言っている状態だ
1 と 2 は厳密には違う主張である(しかし現実には同時に出ることが多い)
この種のすれ違いを止めたい場合、正面から「批判するな」というのはあまり賢明ではないと思われる。
イエス・キリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのないものから石を投げなさい(ヨハネによる福音書第8章)」と言ったそうだが、これは逆説的にこの種の衝突をストレートには止められないことの表れと解釈できる
なぜなら、イエスはこのとき「石を投げるな」とは一言も言っていないからだ
「石を投げるな」と正面から言ったところで無駄だとわかっていたから、「罪を犯したことのないものから順に〜」と言うしかなかったのだ
本当に罪を犯したことのない存在ならば、理屈の上では石を投げても良いのである
しかしそのような人間は現実にはいないので、この場面では効果があったと言える
炎上があった際にストレートに批判を止めようとする人は、この種のエピソードのギリギリの繊細さについて考えたほうが良いだろう
またこの記事の前提でいくなら、批判する人の考えにはおそらく道徳を優劣のつく競争のように捉える傾向があるかもしれないので、その部分を反省させるのがよいだろう