260205_差を慈しむ
あまりシャキッとは語れていないが少し考えたことなどを書き留めておく。こういうのはとりあえず書いてみるのが大事に思えるので。
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コミュニケーションというのは常に差を埋める行為だ。例えば、自分と全く同じ人間とコミュニケーションすることを想像すると、なかなか難しく思えてくる。両者に差が無いから、伝えるべき情報も語るべき内容も無い。人に何かを伝えるというのは、両者のあいだに差を見つけ、その差を埋める行為だ。友人の背後にクマが近づいることに私だけが気づいた場合、指をさして「クマ!」と大声で叫ぶことで友人と私のあいだにある「情報の差」が埋まり、相手に危険が伝わる。コミュニケーションとは自分と相手に違いがあってはじめて生まれるものである。あらゆる表現も同様だろう。差異の多様さこそが表現の多様さを開くのだと思える。
折に触れて思い出す言葉がある。シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の中の一節だ。
隣り合わせの独房に入れられ、壁をこつこつとたたいて通信し合う囚人ふたり。壁は、ふたりを分けへだてているものであるが、また、ふたりに通信を可能にさせるものでもある。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)p.236)
ここでは、囚人ふたりを隔てる壁、本来ふたりを遠ざけるもの自体が、むしろ新しいコミュニケーションの可能性を開いていることが語られている。ここで面白いのは、壁がふたりを隔てたことによって、むしろ両者が共有しているものがはっきりと浮き上がっているところにあるだろう。言葉が通じないから宗教画が生まれたり、通信容量が少ないからアスキーアートが生まれたり、表現というのはさまざまな隔たりや制約の裏に息づいてきた。そういった縛りのなかで、「しかしこれなら伝わる」「これなら差を埋められる」という何かを見つけることで、壁の向こう側にいるのも同じ人間であると確認できる。
海外の音楽を聴いてカッケーと思うことはもはや日常で、映画でも小説でも傑作と思えるものは無数にある。イラストやMVにも日々いいねを押していて、海を越えた生まれも言語も違う人間であっても、しょせん人間同士であり、わかりあえないと言ってしまうにはあまりにも共有する部分が多いなと日々感じる。理想的に語れば、表現の可能性を信じることで様々な隔たりも新しい表現のチャンネルに変えることができるだろう。表現や創作の根幹は自分と他人との違いや内面の差異を面白がるところにあると思うが、そうして違いを探ると同時に、その違いを面白がれる程度には似通っていることも発見できるのが創作の魅力かもしれない。表現のチャンネルを探求した先では、いずれ壁の向こう側に私と同じ人間の姿を認めることができるようになる。あるいは、物理的な暴力の行使はそういった表現の努力をサボった末にあらわれる最低の表現形のひとつだろう。
仕事にするかとは関係なく、より多くの人が何かしらの表現をしてみるとよいと私が感じているのは、プラットフォームという共通項を足場にして、各々の差異を健やかに面白がることが可能だと信じているからかもしれない。例えば、短歌はその形式によってそれ自体がプラットフォーム的になっている。形式に則った作品すべてが短歌の旗のものに集まり、すると各々の作品の個性が見えてくる。形式が各々の人生に接点を作り、共有可能にする。
新しい表現のチャンネルを探求するというのは、表現を生業にする人間ができる社会的な行いのひとつかもしれない。新たな表現は時に新たなプラットフォームを作り、そのプラットフォームはアイデンティティの差を乗り越える足がかりになるだろう。