2021年1月のメモ
210102
ブラウン管ベイビーのこのネタを、あるあるネタの拡張として見るか脱構築の落とし込みと見るかによって見え方が全く変わってくる。
脱構築だった
210102
TikTok、ミーム(=音楽と映像のセット)の流通の広さと速さが他のプラットフォームとダンチなため、「普段TikTok見てる人間なら誰もが知っている曲」が何十曲も存在して、強固な文脈的基盤を形成している。これによってSNS的な動画プラットフォームでありながらテレビのような共通の話題性を担保できる。
前提として、TikTokは動画発掘の中心をレコメンドに拠っているのでこういうシステムが形成できる。レコメンドシステム上で視聴者は次に見る動画を選択できず、その点がテレビと近い。動画数が膨大で、かつ選択的に視聴される場合はこのような共有文脈の形成は難しい。
だから「TikTokで聴いたことある曲メドレー」とか作ればみんな聴いたことあるのでTikTok内の全員に刺さるし、実際に作られてバズっている。ひとつのメドレーに対して二次創作動画が1万つくられてたりして、このあたりの爆発力もえぐい。
210105
基本的にお金は時間に変換できて、時間はお金に変換できるので、時間が足りなくてお金が余っているときに後者をやるとめちゃくちゃ損してしまう。
210107
漫画は空間を時間に翻訳している
チャンソーマン→この「空間時間翻訳」をあまり使っておらず、コマにひとつしか台詞を入れないことで映画性(=空間性)を強めている。
映像研→コマにパースを付ける手法でこの「空間時間翻訳」を放棄していることで、コマ内の空間性を復元している。
210107
ネットの発達により、「全く同じ物理世界に生きながら、全く矛盾する情報世界を生きる人間」という存在が顕著になってきた。
210108
自らが経験したことは絶対的な知識として扱っていいとしても、経験から「地球が球形である」とかを導くのは大変で、だから現状我々は「この人/この媒体は信頼できるから、この情報も信頼できる」という信頼経験の演繹から知識を拡張するしかないのだが、SNSによってこの演繹の問題が顕著になっている。
つまり、「なぜ自分はこの情報を信頼しているのか?」という根源に立ち返る余裕、あるいは立ち返るための情報的基盤を誰も持ち合わせておらず、そのためSNS上の議論が信仰対立の形式を取ってしまう。もはやこれは誰にとっても他人事ではない。
そもそもSNSのシェア機能はあまりにも感情によって駆動されやすく、そのため論理バトルや真理バトルの前に感情によっていかに味方を増やすかという共感バトルが機能しやすい環境が整っており、それがファクトの価値を相対的に下げている(熟考してからRTを決める人間はほぼいないので)。
感情が発火した瞬間が一番シェアを呼びやすく、だからTwitter社がRTを引用限定にしたり記事を読みましょうと表示したりしたのは感情の発火が収まるまで少しでも時間稼ぎをしようという試みだと思うのだけれど、そのへんもすぐ慣れてしまうのでなかなか簡単に解決する課題ではない。
要するに「なぜそれを信じてるんですか」という疑問を発する際には、自らもその問いに(相手よりも根源のレイヤーを抑えた形で)答えられる必要があるが、これは多くの人にとって(事実を経験していない限り)意外と簡単なことではない。「信頼の演繹」の根源は環境に拠るところが大きい。結局、課題は個人の論理能力以上にこの環境にある。
210108
YouTubeは動画の発掘が基本「関連性」によって行われるため、既存の動画と何らかの関連性を持つ動画のみがサジェストによって視聴者にアクセスされ、結果同じプラットフォームにありながら誰も辿り着かない「陸の孤島」的な動画が数多く生まれる。一方で、TikTokのレコメンドはすべての動画を平等に視聴者に接触させ、その初動に応じてその後の接触頻度を調整しているためすべての動画がすべての視聴者に接していて、前述の「陸の孤島」が発生しない。YouTubeでは「人に見られさえすれば伸びるのに誰にも発掘されず眠ってる動画」が無数に存在しているのに対し、TikTokではシンプルに面白ければ伸びる。
210109
フローチャート漫才、今考えると、文の範列関係を会話の範列関係という形で拡張する試みに見えるな。
210110
ハイパーテキスト小説
言葉を直線で扱わない。分岐や木構造、ネットワーク的に言葉が扱われても良い。
210111
「モジュール」と「範列」について。大きな構造を持たず、最小単位の組み合わせによって自由に伸縮するモジュール的な作品の可能性と、大きな構造の中のパーツを入れ替えることによって無数のパターンを生産できる範列的な作品の可能性。前者の例はレゴ、植物など。後者の例はコード進行、SVOCなど。
モジュールと範列のキモは、パーツ群を並べることでそこから(何も考えずに!)たくさんの作品を生成できるというところにある。だから問題はどんなパーツがどのように接続するか、という接続文法を明らかにするところにある。
▼範列
・接続機能……言語における「名詞」、音楽における「ドミナント」など。接続機能系の中の接続機能が同一であれば、その内容が何であれ文法的な接続が機能する。
言語における範列関係はその機能によって互換性が担保されている。
例えば日本語は「SOV」言語なので、「名詞が名詞を他動詞」という連辞関係の中に、名詞や動詞の範列関係が内在している。だから、この機能対機能の連結さえ担保すれば、言語でないものにも範列関係が見出だせる。 例えば、コード進行ではコードが「トニック」「サブドミナント」「ドミナント」という3つの機能に分類され、それぞれの連結法が規定されている。これによって和声にも範列関係を見出だすことが可能になる。
ストーリーには「起承転結」がある。つまり各場面を起承転結それぞれに還元し範列関係を見出だすことも可能かもしれないが、大抵のストーリーは起承転結の連辞の結びつきが強く(つまり次の場面は前の場面を強く参照するため)置き換えは難しい。Aという映画の起とBという映画の転を結びつけようとしても、そもそも登場人物が違っては繋がりようがない。機能の内容物が連辞に関わってくる場合は、範列関係を見出すことは難しいのだ。ではその内容物による制約条件を整えるとどうだろう。どこを捨象することで、例えば4コマ漫画の範列関係が可能になるだろうか。
▼モジュール
植物と動物の違いのひとつに、植物が持つモジュール性がある。動物というのは、例えば犬なら胴体に脚が4本生えていて、その脚が増えるということはない。しかし植物は同じパターンを無尽蔵に複製、連結することでその身体を形成している。植物は、動物が持つような大きな構造を持たないため、その身体をどこまでも拡張できる。
言語はこの意味で、まさにモジュール的な性質を持っている。
漫才はモジュール性を備えている。漫才は「ボケ→ツッコミ」という最小限の要素を組み合わせることで成立しており、大きな流れは必ずしも必要ない。コウテイの漫才はモジュール漫才。ツッコミ逃がすな!オードリーの漫才もかなりモジュール性がある。
音楽もモジュールである。Aメロ、Bメロ、サビという構成要素は置き換え可能(範列関係)で、また、Aメロを無限に拡大することもできる(モジュール)。
つまり、「大きな構造を持たない」「連結が可能な最小要素が存在する」という2つを満たせば、植物的な構造の作品を作ることができる。
▼範列の実践
・フローチャート漫才
210111
経時芸術と読時芸術について。作品に時間情報を含む作品と、含まないが体験に時間が伴う作品とがある。前者は映画、音楽など。後者は小説、漫画など。後者が時間情報を持たないのに鑑賞者に時間を体験させているのは、(特定の文法を通して)空間に時間を仮託しているためである(漫画のコマ割りなど)。
経時/読時芸術という言葉は呼び分けるためにいま即席で命名したので、既に良い用語があれば借りたい。実はこの文章も空間に時間を仮託していて、左上が時間の始点、右下が終点、というルールで翻訳がなされている。普通のしゃべりには空間性がなく時間性だけがあるので、文字との差はそこにある。
▼時間と空間の表現に関する考察
・経時芸術……時間の経過情報を内在している作品。一般的な音楽作品や映画やアニメを含む映像作品、朗読など。
・読時芸術……時間の再生が鑑賞者に委ねられている作品。小説や漫画、絵本など。時間情報を持たないため、必然的に空間に時間情報を仮託することになる。
漫画は、平面の静止画という形式で時間を表現するメディアである。しかし、当然静止画なので、それだけで時間を伝えるのは難しい。そのため、漫画は空間を時間に翻訳するための文法を編み出した。そのひとつが「コマ割り」である。漫画のコマ割りは、基本右上から読み始め、左下へと読み下していく。そうすることで我々はコマとコマの差分を取り、コマの中に描かれたシーンをつなげ時間を再生するのである。また、このルールはコマの内部でも機能している。漫画は、コマ内のキャラクターのセリフを明示するためにフキダシを用いているが、このフキダシを読む順序も右上から左下という空間的な文法によって指示されるのだ。そして、これは空間情報の一部を時間情報に売り渡しているということでもあり、それゆえ漫画では時間情報を阻害するような空間の利用に制限が掛けられているのだ。こうなったとき、空間性の復権の方法はふたつしかない。
①空間→時間翻訳文法の無視
②文法に頼らない時間表現
①を実践しているのが映像研である。映像研はフキダシにパースを付ける演出をよく用いるが、これはフキダシという空間の上のレイヤーに位置していたセリフを空間に戻してやる役割を負っている。そして、この手法が用いられたコマでは「右上から左下へ」という漫画の読時文法が必ずしも機能しない。これによって漫画における空間の主導権を復元している。
②を実践しているのがチェンソーマンである。前述の通り、漫画における読時文法はフキダシの方向の他に「コマ割り」がある。そして、フキダシの読む順序がコマ内の空間演出に制限を加えるということは、コマ内に読時文法を持ち込まないことでコマ内の空間性を担保することが可能になる。具体的には、同一コマに二人以上のセリフを盛り込まず、別の人間が話す場合にはコマを変える。チェンソーマンはこの方法によって空間性を保ちながら時間表現を行い、実写におけるカメラワーク的な演出を漫画で実現している。
以下時空間表現に関連する試み
・自動小説/みそ
210111
結局「押韻」というものは、言葉の直線性(線条性)の限界が生んだものなのだと思う。言葉というのが方向を持った一本の直線で、あるふたつのパターンを同時に発することが基本的にできない(二人いれば「ハモる」という形で可能になる)。だから個人の発話において符合遊びをするには必然的に時間的なズレを甘受した上でやる必要があり、その結実が「ダジャレ」とか「押韻」なのだと思う。
この言葉の直線性を解体する試みのひとつが『ことばのおばけ』で、これによって言葉の直線性が支配していた押韻やダジャレの時間的なズレを共時的なところに戻してやって、「共時押韻」や「共時ダジャレ」を成立させてみた。
言うまでもなく、言葉の直線性が生んだ押韻という文化は尊いものである。音楽が縦構造(和声)と横構造(旋律)を持っているとしたら言葉は横構造で、押韻はメロディでありリズム。でもだからこそ、ハーモニーとしての押韻があってもいい。
■言葉の線条性の実践
言葉の線条性を順手で握ると、「直線があればその上に言葉を流し込める」というアイデアに落ち着く。そして、逆手に握れば「いかに直線から逸脱するか」というアイデアに帰着する。いずれにせよ、空間に文章があれば必ず直線で結ぶことが可能で、その直線を操作する余地が残されている。
▼空間における線条性の利用
直線的に進むものがあれば、そこに言葉を流し込むことが可能になる。
・文章の迷路
・詩のあみだくじ
▼空間における線条性の破壊
・ハイパーテキスト小説
始点も終点も定めず、ばらばらの文章の順序を指定しない
・冲方丁『スプライト・シュピーゲル1』
ルビというのが文字の記述文法の中で「下の文字と共時的に読んでください」という機能を指示しているからルビが言葉の線条性から自由になる一手を担っているのか。例えば、横書きの文章をただ縦に並べると、上の文を先に読むという記述文法的な制約が働いて線条性に取り込まれてしまう。
こんな問題が発生するのは読時芸術がその時間性を空間に仮託するしかないからですね。経時芸術ならそのまま同時にふたつの音声を流してしまえばいい。
・LINEで発生する二重螺旋構造(複線会話)
・サルバドール・プラセンシア『紙の民』
・アリ・スミス『両方になる』
第一章が2つあり、どちらが先かで2パターン刷られている(読者は普通そのことに気付かない)。
・コルタサル『石蹴り遊び』
章に番号が振られていて、読む順番の指定表が2つあるゲームブック的小説。
210111
コンセプトだけを抽出した作品というのは、知識の記述である教科書と同様、提示するコンセプトを理解したらその役割は全うされるため繰り返しの視聴に耐えない。そこにエンタメ性を付すということはコンセプトの純度を下げることに繋がるが、同時に視聴体験の反復・咀嚼を設計するということでもある。
私はエンタメ性の価値、力というのはここにあると考えている。咀嚼され身体化されたコンセプトは人間の理解をアップデートする。コンセプトにそれとは別の楽しさを纏わせることはそういった咀嚼を動機づける端緒となる。
210113
メロディは情緒のみを含み論理や言語的事実を含まないから、歌詞に論理や事実を盛り込むほどにメロディとの不協和を生むと考えているのだけれど
210113
自分を物語化し続ける(つまり演出として人生を遂行し続ける)人間のヤバさ 物語中毒 緩やかな平穏は物語にはならないため、突発的に仕事を辞めたりして物語的な谷を作る必要がある そこが恐ろしい
210113
人生を物語化するために自らでっかい谷を作りに行く人いるが、物語演出としての谷作りと現実の摂理には何の関係性もないので両者の区別がないと大変なことになってしまう。物語が人間をエンパワーメントするのは事実なので節度が重要になる。(物語捨てると「意味なんてないさ暮らしがあるだけ」になる)
全財産300円の状態で藁にも縋る思いで宝くじを買ったとき、物語世界の原理を適用すれば間違いなく当選するが、現実世界にそのような原理は存在しない。ここを区別しながら人生という物語を楽しむ必要がある……
210113
この世を概念の集合と捉えて、その要素の相互関係で導かれる物が同じ集合に属しているとすれば、それは同じ群と見ることができる。だから、架空の閉じた情報体系を作ってその中で概念を膨張させながら遊ぶこともできるかもしれない。
というか、現実世界を群として捉えるみたいなの誰かやってないのかな(流石にやってる?)。世界は原子の集合で、その冪集合の中に物体があり、その操作は物理世界に閉じている、的な……
210113
そもそも、画像と映像の境界みたいなものはちゃんと考えてみたいな……。シネマグラフみたいに画像の一部を動かすみたいな手法もあれば、1秒のGIFは画像か、逆に1時間の画像があってもいいのか、とか……
よく考えれば(よく考えなくとも)映像というのは基本は画像の連続で構成されるので、シネマグラフとかは「画像の中に画像の連続を仕込んでいる」と見ることができる!
そもそも映像が画像の連続なんだとしたら、現実に見てる画像も画像の連続なんだから画像は映像の一種なのでは!??!??!??!
つまり、動量(動きの量)が0の映像が「画像」で、そこから映像に向かってグラデーションが始まっている、という見方ができる……!
長時間露光、確かにかなり映像っぽい……。複数の時間(時間の幅)を一枚に収めてるからか。え、面白いなぁ……長時間露光的な1コマ漫画とか作れそう。
そして映像であることと長時間露光が矛盾しないのも面白い。「AKIRA」でテールランプが尾を引くのとかはまさしく長時間露光の手法だし、つまり映像の中にさらに複数の時間を格納していることになる!
単純なループで構成されるLo-fi HipHopはもはや空気のように消費されてるわけだけど、それはある意味音楽の時間性を弱めより背景的な役割に徹させるようにした(画像的な性質を強めた)とも取れる。完全な画像とまでは行かずとも、それこそ勉強する女の子のループGIFくらいの画像性はありそう、という。
Aメロ→Bメロ→サビ!という展開のある音楽と比べると、パターンのループで構成される音楽はより短い時間の中に息づいているようにも取れる。
「音楽GIF」みたいなジャンルの可能性
EDM、役割としてはランニングマシンとかに近い説
アンビエントとかミニマルとかも静的なフレーズの動的な遷移と考えると漫画かもしれない。え!?!??!ってことは逆にコマで区切らない映像的なグラデーション漫画がありえるってことか!??!?!??!
確かに絵巻っていうのは横軸に時間を取って区切り無しの漫画をやってるとも取れるな……今思ったのは4コママンガってコマ割りが固定だから全部GIFにできるよねということ。空間に置いてあるコマを上から読んで差分を取ることで時間を把握するのが4コマ漫画だけど、GIF化することで漫才的な「間」の芸術に昇華できる可能性が開拓できる。(これYouTubeの漫画違法アップロードじゃね?)
The Deep Seaも面白いな〜〜たしかに。そう考えると現実の深海とかって絵巻なのかもしれん……潜るのに時間が伴い、それに応じて景色が変わる……ミニマル・ミュージック的でもあるな……潜水はミニマル・ミュージック……
画像と映像の中間みたいな画像(動的漫画)と、画像と映像の中間みたいな音楽(ループと展開)を組み合わせる……
画像は時間軸に対して限りなく短い点を無限にループしているものと見ることができる。この「点」の幅をじわじわと広くすることによって、画像は映像になっていく。こう定義すると、画像的な音楽と映像的な音楽が定義できるようになる。
そして画像的な音楽と映像的な音楽が定義できると、今度はそのループ幅、展開方法に応じて「漫画的な音楽」とか「映画的な音楽」、「ループGIF的な音楽」も定義できる!
この定義において、完全に画像的な音楽というのは限りなく小さい一点を無限にループする音楽ということになるが、つまりこれは横の構造(メロディとかリズム)を持たず、ただ縦の構造(ハーモニー)だけを持つ音楽ということになる……!!!
210116
Pay Attention(注意を払う)という表現があるがまさにそのアテンションが徴収され換金されている社会
210116
宝くじは「当選している人のイメージ」を持ってないと購入する気持ちは起きない。逆に、友人が宝くじで100万あたった、みたいな話を一度聴いたら格段に買いたくなる気がする。拡張ミラーニューロン。物語の重ね合わせ。悟空を見てかめはめ波の練習をするのと同じ。
210116
YouTubeと例えば録画した番組をテレビで見ることの最大の違いはシークバーの有無のように思える。YouTubeはシークバーが必ず表示され、今時分が全体のどこにいるのかを俯瞰できる。あれ、今ってそんなことないっけ?
210116
転スラのリムル、精神は男性、身体機能は無性、外見は女性という3層構造になってて面白い。
転スラはいわゆる「物語の谷」的なものが殆ど無く、ひたすら上がり続ける直線構造を持っている(微分すると整数になる)ので、感情のASMRだと思っている。
210116
物語や音楽、とりあえず時間情報というx軸は持ってるので適当にy軸を定義すれば微積分ができるようになるな
210116
「裏技」という名前でバグを価値に転換した。おもしれ〜
210116
「後を引く体験」、記憶の反芻が発生しているということ
210116
例えば、作品と、作品の意図を余さず書いたディスクリプションがあったとき、なぜディスクリプションだけでは駄目なのか、ということを考える必要がある。
そうなったとき、作品の強みは「(視聴)体験として設計されている」ところにある。つまり、鑑賞者に対してディスクリプション2描かれた意図を一次情報として仕入れてもらう力があるのだ。
結局、人は体験したものしか確かな情報として扱えない。
210117
人はもっと物語に耐性をつけたほうがよい
物語なら友人が死ぬと特殊能力が覚醒するかもしれないが、現実で友人が死んでも友人が死ぬだけという
210117
得てしてコンセプトというのはパッケージであることが多く、そのコンセプトを満たす内容物(コンセプトという抽象の具体)はコンセプトの伝達に大きく関与しない場合はある。しかし、だったらより多くの人に広がるような機能を持った内容物をデザインするのが良いのではないか。
210117
文章における一文字一文字は、文章内における位置情報と時間情報を有している。そのため、1文字を1フレームに見立ることで、文章をアニメーションとして読むことが可能になる。
アニメーションテキスト
210118
文章と漫画の共通点はそれが持つ時間性を特定の文法を通し空間に仮託しているところにあります。
時計、楽譜、列車ダイヤグラム、地震計、タイムライン、絵本、年表、絵コンテ、組立説明書、オニオンスキン、カーナビ、系統樹、棋譜、プログラム、ピアノロール、スラヴ叙事詩
列車ダイヤは予言か?天気予報はプログラムか?地震計は漫画か?楽譜は絵本か?カーナビは小説か?棋譜はピアノロールか?
210118
よく考えるとモーションブラーというものは1フレームという時間の点に1フレーム以上(時間の幅)の情報量を入れる手法なのか。でも写真(実写映像の一枚一枚)がそもそも時間の幅を映したものだからその点では普通な営みなのかもしれないけど。
210118
あなたのその娯楽は既存の構造に加担するものなので、楽しまないで構造の解体に協力してください、と言うのは簡単だが、その娯楽が当人に生きる意味を与えてくれてたのに対して構造の解体は生きる意味を与えてはくれないので、そこが課題だ。
210118
ドアとか窓は自明にゲートだが、貞子はテレビ画面をゲートと定義したのが凄いな……
ナルニア国物語はクローゼット、千と千尋はトンネル、仮面ライダー龍騎・かがみの孤城・ジョジョ3部のハングドマンとかは鏡、ハリー・ポッターは壁(!)みたいな感じで異界を繋ぐゲートに見立てられるものめちゃくちゃあるけどその一覧みたいなの無いのかな。ありそう。
「これもゲートかもしれない」と考え続けるの楽しいな〜〜〜。近所の池はゲートかもしれない。壁に掛かってる絵がゲートかもしれない。マグカップがゲートかもしれない。本の特定のページの見開きがゲートかもしれない。
210118
半目botシリーズ、まばたきという連続したアニメーション上にある1フレームを取り出すことで本来は存在しない「半目」を取り出すことに成功しているという点で写真の再発明感があって本当にすごい。
しかも、アニメーション上に「半目」のフレームが発生するようになったのはキーフレームで連続的にアニメーションが描画される手法(=CG)が出てきた後の話なので、離散的だったアニメが現実に寄ったことで発見されたという意味でも写真の再発見っぽい。Live2Dは2Dだけど連続的なので半目がある。
3DCG以前(セル時代)は「開いた目」「閉じた目」の2つで(離散的に)まばたきが描写されることが多かったのでその間に半目を見ることはできなかったが、3DCGとLive2Dの普及によって意図して描かれたもの以上の数の半目が流通するようになったということです。やったぜ!!!!!!!!!!!!
210119
「ア◯コ」の◯に入っているのは「ン」と「ソ」のどちらとも取れない文字。そこに一本の補助線を引くと、手描きで「ン」や「ソ」を書いたときの記憶が呼び覚まされ、読み方が一意に決まる。記憶の堆積に補助線を引く試み。
210119
作品の価値のひとつはそのコミュニケーション性にあると考えています。作品に触れた人が「あ、そういうのもアリなんだ」となって、そしてすべての人の認識が1段階アップデートしたら、そしたら社会が次の探求のステージに進めるようになる。
210120
手を動かしている間は自由になれる。手を動かしている時間は悩んでる時間の後か悩んでる時間の前だが、悩んでる時間と同じかそれ以上に大切だと思っている。
210121
作品に自信がないと相対的に他者からの評価の依存性が上がり、逆に作品に自信があれば他者評価の依存性は下がる。作品に自信があるときにクリティカルになる正の評価はコミュニケーションの成功への確信に繋がるような評価で、負の評価は作品を支える裏付けが揺るがされるような評価。
210122
因果関係を使って静止画内に時間を内包する試みについて。「"今見えているAのあとには必ずA'が後続する"という因果があり、そして同じく今見えているBとA'が邂逅すると場面が展開する」みたいな状況を作ると、1コマの静止画と視聴者の想像力を借りて時間のあるストーリーを作ることができる、予感。
これの話
①は要するにプログラムとして静止画を描画するということで、その後発生するであろう出来事をどれくらいひとコマに記述できるか、というのを考えてみたい。例えば、ベランダの植木鉢が落ちかかってて、その下におじさんがいたらその後の場面は"描かずとも"想像できる。
②『蔦の細道図屏風』みたいな、左右を入れ替えても成立するというフレームは映像、音楽、文学に応用が効きそう。というかイラストでもまだそんなに応用されてない気がするので遊びたい。
②けもフレのアライさんの左右の目を入れ替えて「ツライさん」ってやるやつあったけどアレって蔦の細道図屏風とやってること同じですよね!?!?!?(みたいに2つのコンテンツにアナロジーを見出して直線で結ぶことによってその直線上にヒットしたアイデアを総取りできる)
というか、「左右を入れ替える」に限る必要はなく、蔦の細道図屏風は要はレゴブロック的な構造なんだから無限に延長可能なモジュールなんだよな。
210122
Twitter、ツリー機能を使うことで「タイムラインという縦向きの思考」×「ツリーという横向きの思考」を織物のように構築することが可能ということに気づき、(つまり一ヶ月前のツイートにリプすることで流れ去った思考を掴んで広げることができ、)完全にメモ帳と化している。
210122
インターネットにアップロードされた人格を鑑賞するのに慣れてしまったオタクにとってVTuberは紛れもなく「本物」なわけだが、生身の身体にこそ人格が宿ると考える人間にとってVTuberは端的に「嘘」と映りうると知った。
VTuberについて「で、本物はどんな人なの?」と訊かれたとき、概念の捉え方の差を感じ驚いてしまった。でも確かに現実と虚構の境界をずらせばVtuberは本物にも嘘にもなる。その境界をもっと前進させると、例えばコスプレは嘘か?メイクは嘘か?盛れた自撮りは嘘か?みたいな問が湧いてくる。
VtuberのFaceRigと化粧の差というのは生身の肉体(すっぴん)と相手の視界との間に挟まっているレイヤーの量/質的な差でしかないと考えることが可能で、そうなると生身〜VTuberまでグラデーションでしかないということになる。(この話におけるVTuberはキャラを作りこまず素の人格で配信するVTuberを指す)
よく考えたら、SNOWの"盛る"機能とかTikTokやzoomの化粧フィルターとかは完全にVTuber的なFaceRigと物理的な化粧の中間に位置していて、ここまで来るとすっぴんの人間とアニメキャラクターの境界に一本の線を引く試みはより困難になる。
人格をネットにアップロードして肉体からの離脱を試みるという点ではTwitterとか2chは声出しYouTube配信よりさらにバーチャルだと思っていて、我々は皆すでにバーチャル世界を生きるVッタラー(バーチャルツイッタラー)なのだ。
210123
構造の破壊はそれまでその構造に意味を与えられた人々から意味を剥奪することでもあるので、倫理的な営みとして構造を破壊するなら意味も保障しないとヴァンダリズムで終わってしまう。
仮に(仮に!)、喫煙メイドが大好きでTwitterに流れてくる喫煙メイドのイラストや写真が生き甲斐だった人がいたとして、でも時代が下って健康上の観点からタバコ表現が規制され、ジェンダーロール的観点からメイド表現が批判される風潮が出来上がる可能性はゼロではない。
するとこの人は生きる意味をひとつ失うことになる。もちろん喫煙メイドだけを生き甲斐にして生きてる人はほぼいないと思うけど(だから比喩に使える)、構造を解体していくと似た現象を体験する人は増えてくはずで、するとどこかでデカい揺り戻しが来るのでは……と危惧している。
ただ私自身はこの構造の解体の恩恵をかなり受けている自覚があって、その恩恵を最大化するためにはこんなこと言わず静かに構造解体に参加すべきなのだが、だからこそこの解体行為が倫理なのか拡張されたエゴなのかは内省しておきたいという……。
構造が意味を与える(押し付ける)時代から意味を自分で探す時代に移行するというのはある種、意味を狩猟する時代に突入するというこもでもあり、そうなるとかなり実力至上主義的な側面が強くなるなと思っていてその2つの折り合いをどこでつけるべきか、というのがかなり悩ましい……。
210124
関連性によってサジェストされるYouTubeでは既に見られている動画と類似性がある動画ほど伸びやすくなっているため、(チャンネル登録者による巡回を考えなければ)「既存の流行×自分のコンテンツ」で動画を作るのが伸ばすための定石となっている(香水、Among us、THE FIRST TAKE、激辛ペヤング、KING)。
再生数に最適化しながら作ろうとするとこの路線が最善手になるのだが、この特定のキーワードを軸に視聴を回すというのは(刹那的で)水平的な広がりにしかならず、深堀りや積み重ねみたいな垂直の広がりには繋がりづらい。「Aに影響を受け、Bを作りました」みたいな流れはサジェストでは可視化されない。
その点ではタグによってサジェストに依存しない検索プラットフォームを作っているニコニコのほうが文化醸成という点では強いかもしれない。「ボカロ曲かこれ?」「音MADかこれ?」みたいな動画でも、そのタグをつけることによって視聴が取れるから類似性に執着する必要がない。枠組が拡張されやすい。
ひとつめのツイートにカッコ書きで書いたけれど、YouTubeでもチャンネル内での(=チャンネル登録者に向けての)文化醸成は全然可能だと思っており、そこではサジェストに拠らない「期待の原理」が働いているため登録者的な需要さえ満たせれば流行に乗らずに再生数を取ることができる。
そうは言っても流行が決して悪いわけではなく、流行というある種のテンプレートがあることでクリエイティブへの参加ハードルは下がり、オリジナリティを発揮すべき箇所が明確になり、かつ視聴数が取れるという複合的な嬉しさが期待できるため、流行の存在はコンテンツ投稿のモチベを後押ししている。
やはりニコニコはタグで括ることでコミュニティが発生するのが強い。バラバラの動画をタグで囲ってそこにコメントが流れることでタグ内における動画の人格とそれが帰属するコミュニティが可視化される。コミュニティが可視化されると、「コミュニティの発展」という形で文化醸成が動機づけられる。
210124
選択したい人間にとって押し付けられるのは苦痛だが、選択というのも実はコストで、そのコストが支払える余裕が無い場合はむしろひとつ決めてくれたほうが楽、みたいなことはあると思っており、この「押しつけのストレス vs 選択のコスト」のせめぎ合いがそこら中にある。
コンテンツが選べるという点でNetflixはテレビより強いが、
"選ばなくていい"という点でテレビはNetflixより強い……
「料金プランは1種類(A)」だったものが「プランは以前のものも含め10種類(ABCDEFGHIJ)」となった場合「Aがいい人はそのままでいいし嫌な人は他が選べるし皆ハッピー」と考えることも出来るが、実際は全員に比較検討のコストが(無自覚に)要求されているため、単純に選択肢が増えただけとは言えない……
210124
良いものを見ると脳内で情報がオーバーフローして爆笑してしまう(爆笑は情報のオーバーフローで発生する)。
このツイート自体は嘘なんだけど、インプットされた情報が脳内の情報と反応してさらなる未知の情報に変化し、その情報がまた脳内の情報と反応して……みたいな情報の燃焼が脳内で起こることがある気がする。つまり僅かな情報が元手(触媒)となって反応を起こし、脳内に情報爆発を起こすという。
「イッヌ」みたいな文字列、ビット数で言えば6バイトしか無いんだが脳内で反応して爆笑を呼ぶポテンシャルを持っていたりして、この感じを燃焼になぞらえてモデル化できたりしないだろうか……
210126
人間の発話とか歌唱を音素、音程、音価あたりに切り分けて考えれば、それぞれに個別の情報を持たせられることに気づく。
音素……音色です。子音と母音。楽器の音色も含みたい
音程……音の高さです。音階、アクセント、声調。(先日の文字列ピアノの動画は音程言語への挑戦)
音価……音の長さです。モールス信号は音価言語!
210127
倫理、答えはなく選択だけがある。
210127
何かを完全に忘却することによって初めて行動できるみたいなこともある。
隣にある崖を一旦忘れることでダッシュが使えるようになるみたいな。
210127
2番Aメロのラップの譜割りがかなりいい。
1小節目の「セフレ」を起点にして「デフレ」「眠れ」「エグれ」で踏んでいくわけだけど、2回目以降は1回目より早いタイミングで着地している。さらにその後「人生」「申請」で踏むがここでも「申請」のタイミングは「人生」より大きく後ろに立っており、着地の予想を裏切っている。
いわゆる押韻の「すかし」「めくり」みたいな手法。昔からあるけど。
押韻をめくって背後に立つことでアウフタクトに繋げる疾走感や、押韻をすかして想定よりうしろにに着地することで予定調和を演出できる。
韻を手前で着地させて余白を作る手法(めくり)でパッと思いつくのはHIPHOPよりもレゲエの韻だな。
この曲のJUMBOのバース(1:12〜)では、「そりゃ面倒」「ロマチェンコ」「戦場」「遠慮」で押韻されているが、「遠慮」だけは2拍手前で着地して直後に余白を残している。
韻の着地を遅らせる手法(すかし)はコード理論に例えるなら解決の遅延で、踏んでない間の緊張感を担保することができる。
1:56〜「倍増」「代償」で踏んでから敢えて韻をすかし、その後「最初で最後」と連続で押韻しながら手前で着地している(めくり)。
210128
人間、数字から意味を読み取る能力が強すぎて欲望以前に数字に対する耐性があまり無く、本来の目的を忘れ数字に一喜一憂してしまうことがままあるので歯ァ食いしばってこれをうまく制御下に置かねばならない……
210128
「Aしたかったはずなのになぜ俺はこんなことを……?」みたいになってる場合Aしたい人間が集まってる場所に接触するだけでモチベがちゃんと復活するから、動機を見失わないためにも環境超大事だなと去年かなり実感した……
210128
この、場の情報をもとにリアルタムでBGMを音楽を演奏するの、すごい。ひとつひとつの行動や会話に合わせてマジの自由に変えられるというインタラクティブ性よ……!
(48:38〜BGMでコミュニケーション取っててすごい)
(1:24:12〜爆笑した)
BGMの変化をゲームで組み込もうとすると条件分岐の都合パターンも発生条件も限られるけど人間がやるとフレームが存在しないから無限に遊べるという……この背景兼コミュニケーションという不思議な感覚。そして普通に3人のワチャワチャがおもしろい。
210128
環境が持っている欲望は無意識に作用して自分の欲望という形で立ち現れてしまう。これは宿命のようなもので、だからこそ、自分が持っておくべき欲望を守りたい場合ノイズとなる欲望からは距離を置いて、環境を整備していかなければならない…………
Aというものに価値があると信じているコミュニティにいればAに価値があるという認識が育つしそこに囚われてしまうが、それは自分の目的遂行(Bという欲望の達成)の上でノイズとなるような欲望かもしれなくて、その場合そのコミュニティを抜けBを欲望する環境に移ることで認識を刷新する必要がある……
英語の授業でネイティブを意識して発音するのはダサいと思ってる人間のいる環境にいるとどうしても真面目に発音するのが恥ずかしいという認識が育つが、英語がうまくなりたい場合その認識は成長を阻害するので環境を変えて練習する必要があるとか、そういうアレです……(適宜抽象化して頂ければ……)
210130
前後に漫画のついたイラスト 文脈の補強