余白について
210213
見すごされるための情報を設計する、みたいな考え方。
余白。余白は情報を持たないが、他の情報を支えるという意味では情報を持っていて、削ぎ落とすことができない。
キャライラストの背景を複雑に描き込んだとしてもその要素のすべてを見てもらえることは稀で、でもだからといって背景が機能を失っているということは全くなく、むしろ「見過ごされるための背景を精緻に設計する」ことでキャラを立てるということは大いにあり得る。
認識されていないが、知覚されているもの。
個としては大きな情報を持っていないが、総体として見ると重要な情報を担っているような要素がある、という。
210311
実は余白というのは完全な0/1のみで判別されるものではなく、例えばbpm140の曲をbpm120で再生すると、どちらも音は絶えず流れているにも関わらず120のほうが情報の密度は小さくなり、相対的に余白の"濃度"が高くなる。
余白の濃度が上がるということは、同じ情報の解釈に与えられた時間が長くなるということでもあり、余白濃度の低い状態(余白の少ない状態)では10しか伝わらなかった情報も余白濃度を高く(余白を多く)することで90伝わるということがあり得る。(要は早口でしゃべると伝わらないみたいな話になるけど)
音楽も同様で、やはり人間時間あたりに解釈できる情報量は決まっているのでドラムを1.2倍速とかにするとそこから受け取ってもらえる情報量はどんどん削ぎ落とされていく。逆に0.8倍速にして余白が多くなると先程処理した情報はすべて満足に受け取られるため、意識はさらなる情報の処理に向かう。
だから、ふつうBPMが早くなると情報量が増えるような気がするが、実際はBPMが上がると一つの音に割ける情報処理の時間は少なくなるため体験としての音あたり情報量は減っているとも言える。逆にBPMを落とせば同じ音から拾い上げられる情報量は増えていく(処理しきれていない情報量がある場合に限る)。
210220
余白は委ね
つまり作品の前に立つ人間の記憶の引用
210311
例えば、30文字の詩は読み切るのに10秒も掛からないけれど、その10秒間を「詩の鑑賞体験の時間」とする人はほぼいないはずで、その点詩は時間に対して遊びを持っている。それに対して音楽の場合は10秒分の歌詞に必ず10秒という時間が割り当てられてしまい、詩と比べて時間的な曖昧さが無い。
詩の場合10秒の鑑賞体験のあとに来るものは任意の時間的空白だけれど音楽の場合はすぐに別の歌詞や別の音がやって来るので、その意味で音楽は言葉を流れとして鑑賞することを要求する。10文字の歌詞で3分の歌を構成することは難しいが(無理ではないかも)、詩の場合は咀嚼によって時間が伸縮する。
そしてもちろんこの2つの中間地点は無限にある!(朗読は?とか)
この議論は正しいかと言われれば正しくない。音楽も詩と同様、作品の外側に余白を持つことは可能。でもいま一般的な歌ものの音楽は時間に対して言葉が多いな、と徐々に感じている。1時間を要求する10文字は音楽に出来ないのだろうか。
「言葉が多いな〜」というのはdisではなくて、メロディを口で歌い上げるためにその音のすべてに対して言葉を用意してやる必要があるという歌の成立条件的な話です。