「狂気のタックスヘイブン」としての創作(二回戦)
2020年に書いたもの。以前書いたnoteとシラーの芸術論が接着できたので接着した。
シラーは「美的教育書簡」の中で「美的生」という概念について語った。以下その内容についてまとめ、論の展開を試みる。
シラーは他律的な自然の中から自律的な立法精神を持った美的生が立ち現れる機序について「素材の過剰」「素材における過剰」という2つの概念を用いて説明した。
人間ははじめに素材の過剰、ついで素材における過剰(=美的負荷)を求めるとシラーは語るが、この「素材における過剰」というのは「素材に即して、付随する仕方で示される過剰」といったような意味である。
シラーはまず美的な生の成立を議論する前段階として素材の過剰について論じている。「素材の過剰」とは、必要以上に豊富な素材を与える過剰である。これは人間の内部のみならず自然的世界のうちにも見いだされるもので、例えば十分に餌も与えられ敵も襲ってこない状況において、ライオンがその生命の余剰に駆動されて合目的性を欠いた咆哮を行い自己を充足させることなどはその例である。栄養に満ちた植物がその枝葉を過剰に伸ばすのも同じく素材の過剰によるものと言っていいだろう。「人間は遊ぶとき全き存在であり、全き存在であるとき遊ぶ」という人間学的な命題があるが、この「遊ぶ」という営みは動物のうちにも観察される。それは、欠乏による活動ではなく余った力、余った生命力に駆動されるときに見られる「遊び」であり、被造物の自己保存と欲求の充足によっては限定されない自然の活動の中に見いだされる「遊び」である。この「遊び」において被造物は目的合理的なものを超えたものとして自己の活動を享受する。欠乏に駆動される活動は欠乏が満たされること、欠乏の充足を楽しむのに対し、素材の過剰に駆動される活動は自分の活動を享受する(自己享受がなされる)のである。素材の過剰は自然の因果律に従うものではあるものの、遊戯(質料的な遊戯/自然的な遊戯)の余地を残している。
そして、人間の身体的な器官にそのような自然的な遊戯は認められるが、それのみならず人間の構想力(現実の対象から与えられた感覚を総合する能力)においても認められる。シラーは日常世界における遊戯はこの構想力の働きによるとしており「通常の生活においてなされる殆どの遊戯は観念の自由な継起(=連想)に全く基づくか、あるいはその魅力のほとんどをこの感情に負っているか、のいずれかである」と述べている。
シラーはこの連想に基づいて作用する想像力というものも自然的遊戯のひとつなのだと語る。この連想は人間の動物的な生の能力に属するものであり、自然法則によって説明できるものであるが、どう連想するかというのは外的な世界によって一義的に決定されているのではなく、想像力(イマジネーション)による能動的な活動の消極的な条件を形成しているとシラーは主張するのである。
次に第二種の過剰、すなわち素材における過剰についてシラーはこう述べる。
ほとんどのものは「何のために」という目的連環のうちに組み込まれており、事物はその有用性によってまさにその事物なのであるが、従って目的連環から自由な美的価値を欠いていてもその事物はその事物であり続ける。有用性(内的価値)しか保つ必要のなかったものが余剰としての美的価値(外的価値)が認められる場合、それが第二における素材における過剰なのである。
そして美的過剰によって特徴づけられる美的な生は自ら自由であることに満足しない。それは自らの周りのあらゆる他者を、さらには生命を欠くものをも自由のうちに置かざるを得ない。ある人が美的な生を営むということは、周囲の世界を有用性から解放しつつそれを美化するということにほかならない。こうして人は自らの周りにある対象を美化し、さらには自己を飾ることになる。
さて、ここで問うべきは、素材の過剰から素材における過剰への、あるいは自然的生から美的生への移行をどのように考えるかである。この移行が断絶を伴う跳躍・飛躍であるにも関わらず可能であるのは、自然は「素材の過剰」を介して外的な法則から自らを自由にしているからである。
自然は素材の過剰なものによる強制あるいは自然的遊戯によって欲求による強制ないし厳粛さから美的遊戯へと移行する。すなわち自律的に作用する精神は自律的に立法することで外的な法則から自らを開放するわけだが、その自律的な立法精神が立ち現れるのは自然が素材の過剰を通して他律的な有用性の連関から自己を解放するためなのである。
自律的な立法は道徳的な生にのみ属し自然的なせいには認められないが、立法的な精神はただ素材の過剰、第一種の過剰を通してのみ自然に対して影響を発揮しうる、と主張することによって物心二元論に立つシラーは精神と物質との橋渡しを試みたのだ。他律的な自然の中に以下に自律的な立法精神が現れるのか、ということの原因を「素材の過剰」という概念を通し他律的な自然それ自体に認めていく姿勢にシラーの独自性があると言えよう。
さて、シラーは「素材の過剰」から「素材における過剰」への移行を通して美的生を説明したわけだが、この議論を拡張し社会においてコンセンサスを得ているものとしての芸術の機能について考察したい。
映画『レオン』で名悪役スタンスフィールド(スタン)がドラッグを摂取しながら人を撃ちまくるシーンがあるが、ドラッグを使った直後のスタンはぎこちない動きをしたり、唐突に指揮を振り始めたりする。これはスタンの「狂気」の演出であると同時に、抑えきれなくなった「内なる衝動(すなわち、素材の過剰)」が身体と結びついて表出している描写でもある。そして、スタンほどではないにしても、我々も常に身体的な衝動を携えて生きているように思える。例えば、100円均一の雑貨屋で陶器の棚を見ながら「全部床に落として滅茶苦茶にしたらどうなるだろう」と空想したり、静まり返ったコンサートホールで「いま絶叫したらどうなるだろう」と妄想したりする。もっとシンプルに、イヤフォンで音楽を聞きながら道端でダンスしたくなったりする。これらはすべて先の悪役スタンが表出していたのと同じような「内なる衝動(=素材の過剰)」によるものではないだろうか。しかし、我々は社会に生きる人間なので(そしてドラッグも使用しないので)100円ショップで暴れることもホールで絶叫することもしないし、道端でダンスすることも……小躍りくらいはするかも知れないが……基本的にしない。それは、それらの衝動が客観的には「狂気」と映るだからだ。我々の生きる社会は「理由なき身体性」を狂気として認定する。だから、道端で踊っている人や、絶叫してる人や、頭を振っている人がいたら社会的には「狂った人間」となってしまうのだ。しかし、我々は「狂気」を避けて生きている(「狂った人間」になりたくないと願っている)のと同時に、その狂気のもとである「理由のない身体的衝動」(踊ったり叫んだりしたいという願望)を常に抱えて生きているという矛盾を携えている。社会で生きるために普段は衝動を抑圧しているが、どこかでその衝動を発散したいとも思っていて、いわば我々は「狂気のタックスヘイブン」を欲しているのだ。 「狂気のタックスヘイブン」とは、つまり「通常は狂気とみなされるような行為も、この空間・この形式・このルールのもとであれば許される」というフィールドである。「みんな衝動を発散したいのであれば、それが許される環境を作りましょう」という取り決めのもとで、人間は数々の「安心して狂える場所」を用意した。それがつまり、カラオケであり、サッカーであり、カバディであり、ダンスであり、ギターであり、書道であり、彫刻であり、クラブであるのだ。これらは「この場所や形式、ルールの下でなら身体的な衝動を発散しても良い」という社会的な取り決めを設けることによって、通常社会で狂気とみなされるような行為の数々を文化という形に昇華する役目を負っていると言える。道端で踊ってたら狂気と認められてしまうが、ステージなら許される。会社で叫んだら狂気であるが、カラオケなら許される。「狂気のタックスヘイブン」は社会で我々が抑圧している身体的衝動、素材の過剰の受け皿なのである。そして、その「素材の過剰」が生んだ動物的衝動の受け皿として生まれた芸術や文化は、いつしかその受け皿事態の形式が目的化し、「素材における過剰」へと移行していく。「素材の過剰」は自然なやり方において「素材における過剰」を要請する。それはライオンが咆哮するようなやり方では人間が満足を得ることができないことに起因している。
我々が抱える衝動というのは、常に混沌であり、普通の人間はその「混沌」をそのまま表現することは不可能である。それは、どんなに歌いたい気分のときでも、突然「自由に歌え」と言われたら当惑してしまう、という状況を考えるとわかりやすい。何のルールも与えられていない状況では衝動を適切に発散することも難しく、ちゃんと楽しく歌うためには一定のルールを自らに課し(この場合はどの曲を歌うかを選び)、衝動を走らせるためのレールを用意する必要があるのだ。我々が抱えている混沌とした衝動は、ルールという名の型に流し込み、特定の形に整形することで初めて発露させることが可能となる。これこそが「素材の過剰」が自律的な立法精神を要求するようになり目的合理性を逸脱した「素材における過剰」による美的生へと移行する原因であると考える。
最後に、自己立法によって自らをルールで縛ることと創造性を発揮することは矛盾せず、むしろ創造性を促進している。サッカーは数多くのルールが設定されているが、そのルールによって路上の自由なボール遊びでは見られない複雑なクリエイティビティが促進されている。ルールを定めることで遊べるフィールドが確定し、その秩序内での混沌の模索が可能となるのだ。逆に立法のない世界は「万人の万人に対する戦い」よろしく行動の制限を生む。自己立法による美的な生の営みは縛ることによる自由を獲得する営みであると私には考えられる。