「自由な表現主体の使役」という暴力
プラットフォームの力を持ってすれば何も語るつもりのなかった人をして様々なことを語らせることが可能であり、そしてプラットフォーマーはこの検閲や言論統制とは真逆の暴力、いわば「自由な表現主体の使役」といったたぐいの暴力により自覚的になる必要がある。
SNSは発話数を増やすことによってしかサービスをスケールできないため開発者は本気でユーザーに(必要なこと以外も)喋らせようと設計しているはずであり、そのことを自覚する必要がある。例えばTwitterは人々が話題の共時性に敏感であることを知っていて、アプリではトレンド欄を検索欄と同じカラムに置くことでトレンドを見るつもりのない人にも現在盛り上がっている話題を見せ、会話に取り込もうとしている。
https://gyazo.com/ba0ae8ca38b5a1649d46be32228ccfd2
議論を呼ぶ話題ほどトレンドに乗りやすく、そしてそのような話題ほど自分がなにかコメントする余地を残している。Twitterでは「〇〇の不倫」「〇〇の不倫にコメントする人」「〇〇の不倫にコメントする人にコメントする人」のような言及のスパイラルが発生することも少なくないが、このとき我々はそれについて語りたいから語っているのか、それともプラットフォームによって語らされているのか一度立ち止まる必要がある。さもないと時間と体力を消耗してプラットフォームに時間を搾取されてしまう。
ヤフーニュースのコメント欄はヘイトスピーチが蔓延し偏見の助長・再生産が行われている以上即刻閉じるべきかもしれないが、資本主義というシステムがそれを許さない。コモディティ化したニュースサイトにおいて例え腐敗していても盛り上がっているヤフコメはヤフーニュースが持つひとつのオリジナリティであり、そしてこのコミュニティ(人が集まる場所)というバリューはコンテンツ(ニュースの質)での差別化を図らずともその価値を維持することが可能という点で非常にリーズナブルな武器になっている。PV数がそのまま収益に直結するニュースメディアにおいてコミュニティはいわばベーシックインカム的に機能しており、手放すことは難しい。ここでは資本主義というシステムが間接的に差別的なイデオロギーを再生産している。
「語らせ」のトラップは近年SNS上で戦略的に仕組まれるようになってきている。「ルックバック」に見られた考察の嵐は、考察というものが必ずしも読者によって主体的に行われるものではなく、むしろ作者が読者を使役して(読者の口を借りて)、語らしめるための装置として機能することがある。発見したものは語りたくなる。自ら望んで語っているのか、物語によって「語らされている」のかには自覚的になる必要がある。以下のような広告手法にも同様の「語らせ」の手法が見られる。
https://gyazo.com/a96da54594b6941afa77757664c98bfc
「1000万もらえるグラブル」なら見向きもしない人々が、「もらえる」が「もえらる」になっていることを "発見" したとき、この誤字の "発見" をSNSで共有してくれるのである(その人がグラブルで毎日ガチャを引いて1000万当てる気がまったくなかったとしても)。このブーストの効果によって、もともとの広告だけでは届かなかったはずの広告ターゲットの目まで、「もえらる」が到達する。
SNSの画面に鎮座する長方形のテキストボックスも語らせるための装置という意味で同様である。その空白はユーザーに自らを埋めるように誘惑し続けている。それは一種の「ナッジ」であり、下のファイルのようにユーザーは無意識に特定の行動に向かって誘導される。 https://gyazo.com/6baad5242c8f9a957bfa8ed09410ce65
ナッジという概念は善悪という倫理的価値を内包していない。当然善く使うことも悪く使うことも当然出来る。プラットフォーマーは設計に倫理的な責任を持つべきであり、ユーザーもそれに批判的な支店を持つのが理想である。