自動車整備技能とアマチュア無線・その1(JJ1EHR)
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昭和35年4月1日、私は中学を卒業をするとすぐに、東京都国立市(当時は国立町)の自動車整備工場に入社しました。当然車のことなど何も分かりません。当時は自動車整備の認証制度が発足したばかりで、私が入社した整備工場は制度が制定される前から営業していたため、すぐに認証されました。整備工場の資格は「小型自動車整備」で、黄色の認証看板が証として提示されてました。当時は国立市に整備工場は少なく、自転車屋さんが小型自動車の整備をしてました。
甲州街道に面したこの整備工場は、工場とはいえ木造の建物で、床はコンクリートで平らになっているだけでした。車が横並びで3台入り、奥行は車が入れると2mほど余るだけでした。当時の甲州街道に面した家は農家がかなり多く、農家の荷物運搬はリヤカーでした。社長が「ダイハツ三輪自動車」の中古車を売り込むと、すべての農家が購入してくれたそうです。
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三輪自動車のエンジン始動するには「コツ」があります。キックペタルの重くなるところを探して、キャブレター(気化器)のチョーク弁を閉じてから、勢いよく下に踏み込みます。エンジンが一発でかかるのはまれで何回か繰り返します。ペタルの踏み方が悪いとペタルが勢いよく戻ります(これをケッチンと呼んでいました)。その場合は素早くペタルから足を離さないと、ふくらはぎに当たります。その痛さは半端ないです。何回か繰り返すとやっとエンジンがかかります。
閑話休題。自動車の事は文章にすると長くなりますので、この辺で私のアマチュア無線のきっかけをお話します。私が入社した当時、国立市にはカーディーラーは一軒もありませんでした。後に大学通りに三菱自動車が営業を始め(たものの数年で閉店)、続いていすず自動車やトヨタディーゼル(後のトヨタ西東京カローラ)が営業を始めました。
そのいすずディーラーは屋上に鉄塔を建て、無線のアンテナ(400MHz帯)を設置し、サービスカーには無線機を装備していました。お客様の車が途中で故障したり事故などで自走出来なくなると、そこまで出向き救援するために用意したそうです。当時はまだ自動車電話は普及しておらず、無線が一番の連絡手段だったのです。これが無線との出会いとなりました。
・・・谷上さん、先ほどの「会話の少ない仕事からの会話のための無線、アマチュア無線を始めたくなりました」のような、段落を入れてください。電話級の画像もお願いします・・・
私はアマチュア無線の免許を取るため、講習会会場を探しました。三多摩にはなく東京の電波監理局の講堂で開催すると知り、すぐに申し込みました。東京駅の皇居側出口を出て、すぐ右に数分歩いた所にあるビルが電波監理局でした。毎週日曜日に電車で通いました。講習の最終日には終了試験を受けて終了となりました。
終了試験に合格すると免許証が送られてきました。免許の資格は「電話級アマチュア無線技士」です。オレンジ色の表紙の免許証は縦型で二つ折り、郵政大臣の角印が押してありました。免許日は昭和47年7月31日です。免許証の白黒写真は、20代後半の私です。52年前の私です。
当時私は昭島市に住んでおり勤務先の整備工場のある国立市まで、車で通勤しておりました。免許状が届きコールサインが決まると、早速車に無線機を載せました。「TRIO TR-7200G」144MHz FMトランシーバーです。通勤途中の交差点で信号待ちしていた朝、前の車にアンテナが付いているのに気づきました。すると「後ろの車、聞えますか?」と無線(144MHz)で声をかけられると、交信が始まりました。それをきっかけに毎日交信するようになり、長くお付き合いさせて頂くことになりました。
昭島市の家は米軍立川基地のすぐそばでした。米軍兵士が家族で住む家が多くあり、その一角でした。水道工事業を営むお客様のお宅に立ち寄った際、長さ2ⅿ程の水道管が数本置いてありました。私が譲ってほしいと尋ねると、「使わないので持って行っていい」とのこと、無料でいただきました。アンテナタワーを自作することを思い立ちました。
庭先に深さ2ⅿ位の穴を掘り、自分で溶接して作った基礎にする枠を穴の中に入れて、セメントと砂利と砂を混ぜて入れました。固まった後、水道管を縦にしてつなぎタワー本体とし、高さ6m位の所には作業台も作りました。ローテーター台とベアリングステーを取り付けて、マストのトップまでの高さは約13m位になりました。一番上にグラントプレーンアンテナを、その下に15エレスタック(144MHz)アンテナを取り付けました。
自宅で使っていた無線機は「井上電機 IC-200」144MHzの10W FMモービル機、仲良くなった人からお譲りいただきました。15エレスタック(144MHz)での到達距離は北側では那須まで、南側では藤沢方面でした。地元の局と交信している時、藤沢の局からブレイクが入り、それから毎日交信するようになったりと、楽しい無線活動が始まりました。
実は当時の私のコールサインは、現在の J J 1 E H Rではなく「J F 1 F P D」でした。どの人も同じだと思いますが、30代になると仕事が忙しくなっていき、結婚したりと身の回りの変化もあり、無線から離れてしまいました。
その慌ただしさも一段落し再開局する際にもらったのが、現在のコールサイン「J J 1 E H R」です。再開局するほとんどの方はて旧コールサインを希望するのでしょうが、私は心機一転、新しいコールサインで始めたかったのでした。その後平成20年7月に羽村の市民センターで3級講習会が有り参加し終了試験を受けました。しばらくすると合格通知が来ました。
令和6年11月、電波文化祭⚡️サイクル3が開催される頃、私は80歳になります。「電話級アマチュア無線技士」を手にしてから52年になりました。再開局してから現在までのお話しは、次号にて書かせていただきたいです。長い文章でお疲れ様でございます。有難う御座いました。
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