「こどもたちが自分の道を歩み、夢を叶えるために」に応答せよ
私の大切な住まいてさんのひとり、星合之代(ほしあいゆきよ)さんの「こどもたちが自分の好きな道を歩んで、夢を叶えるための一端を担いたい」という強いご意思から創設された、星合之代奨学基金。たくさんの学生さんたちがこの奨学基金により、自分の道を歩み夢を叶えるために勉学に邁進している。
https://scrapbox.io/files/6721cd4d092cf17df7477dfb.jpg
星合之代(ほしあいゆきよ)奨学基金 | 社会福祉法人 徳島県社会福祉協議会
hr.icon
星合さんのお住まいを初めて訪ねたのは 2001年。天寿を全うしたお母様を看取り、自身も80才を迎えて「終の棲家を頼みたい」とバリアフリーリフォームを依頼されたのが始まりだった。その後、介護付き高齢者マンションに入所した時も、自宅同様にリフォームするなど、お付き合いは永く続いていくこととなった。
https://scrapbox.io/files/6721cd50c38cc8965ee01f41.jpg
高齢者マンションというよりは、リゾートホテルのような星合さんの部屋を訪ねる時、仕事というよりは頭の上らない叔母を訪ねるような気持ちだった。「だれのどんな家を造っているのか」と、いつも出向くたび尋ねられ、現在進行中のプロジェクトを説明した。星合さんはいわば、私のバリアフリーのご意見番だった。
https://scrapbox.io/files/6721cd53f3b67e09a92e8dbf.jpg
星合さんとの雑談の中で時折、故郷の徳島の話が出ることがあった。ロープウェイで眉山(びざん)に昇り、徳島市の町並みから遠く紀伊半島までの美しい景色を眺めに、「徳島に行ってらっしゃいな」と。その眉山の山麓にある寺が菩提寺なのだと聞いた時に、その寺にも行くことになるとは思わなかった。
https://scrapbox.io/files/6721cd569ea2d84c87c549fb.jpg
そんな星合さんの訃報を聞いたのは 2014年6月18日だった。泣いた。その頃とても多忙で星合さんの所へなかなか訪問できずにいて、とても悔やんだ。東京の斎場で、ご住職様と高齢者マンションスタッフ3名と私とでお見送りした。私は心の中で「必ず徳島に行きますから・・・」とつぶやきながらお見送りした。
https://scrapbox.io/files/6721cd59f0673f2cb29cc704.jpg
2019年12月8日、初めての徳島の朝は、南国のような微笑むような晴天だった。徳島を訪ねてきた旅人たちと一夜を過ごしたホステルをチェックアウト、阿波踊りで見覚えのある大通りを進み、菩提寺へと歩いた。ご住職様に挨拶をすると、星合さんの名が刻まれているという、梵鐘(ぼんしょう)へ向かった。手を合わせひと突きすると、5年半を経てようやく約束を果たせた安堵感を感じたのだった。
https://gyazo.com/7753b2ab12281b7c57e9a83226a47bb4
阿波おどり会館の5階にある駅からロープウェイに乗り、標高 290mの眉山(びざん)に登った。徳島市のシンボル的存在として親しまれている眉山。どの方向から眺めても眉の姿に見えることから、その名がついたといわれる。徳島市内にある多くの学校では校歌の歌詞に「眉山」が登場するそうだ。
https://scrapbox.io/files/6721cd42c38cc8965ee01dc6.jpg
単に仕事というより、私の人生の仕事である「住まいづくり」を学ぶために、星合さんから機会頂いたという点では、私も学生さんたちと同じだ。私は先輩として「だれかの夢を叶えるための一端を担うこと」を実践しなくてはならない。私でもできることが必ずあるはずだと、展望台でひとり誓った。
https://gyazo.com/255b17b3a758ff33616b44cb8ba2a49b
hr.icon
2019年12月のささやかな徳島への旅は、往復とも高速深夜バスを利用したが、マスクをしていた乗客はいなかったように思う。「中国武漢で原因不明の肺炎患者が増え続けている」と聞いたのもその頃だったが、異国での出来事と思っていた。
だが、年が明け2020年1月、状況は一変した。出口の見えない不安が全てを覆い尽くした。ひとりひとりの不安が、地域の分断、世代の分断へと連鎖していった。「だれかの夢を叶えるための一端を担うこと」徳島での星合さんとの約束を、私が忘れてしまっても仕方なかった。当時は無線からは遠ざかっていた時期だった。
2021年3月だった。「今年になってひとつも仕事がなくて困っている」と友人から連絡があった。オークションに出品する物も無くなったと、いくらか貸してもらえないかと言う。私も余裕などないが何とか工面してあげたいと考えたとき、物置に10年もしまったままの無線機や周辺機器が、たくさんあることを思い出した。
中学3年で開局し高校での3年間、あれだけ熱中したアマチュア無線も、高校を卒業すると遠ざかった。それから20年経た2007年から無線を再開したが、東北大震災を機に遠ざかった。あの2011年3月11日からちょうど10年だった。その間に一度も無線を再開したいと考えたことはなく、この先ももうないだろうと。
「オークションに出品すると無線機や周辺機器は瞬く間に売れていく」と友人から聞き、私は驚いた。全てが売れたのは2021年7月、合計136,000円にもなった。友人は「こんなに多くはもらえない、36,000円は返金したい」と言い、私は受け取った。無線機を売って得た収入だから無線機を買おうと、秋葉原に向かった。2021年8月、10年ぶりに入店した無線ショップは当時のままだった。発売されたばかりのハンディトランシーバFT5Dと、特小トランシーバDJ-P221を購入した。
学生の頃、ふたつのコールサインを持っていた。個人局:JN1GGZと高校時代に結成したクラブ局:JI1YUSだ。「どちらかひとつだけ復活させればいい、学生の時ほど熱心にやらないだろうから」と、JI1YUSのみ再開局申請した。「クラブ局であれば私でなくでもアマチュア無線を体験してもらえる」と考えたからだった。
https://gyazo.com/38d995e340eb11e2c4dd8d149634e4aa
手放せなかった無線機FT-857Dを書斉のモニタの下に置いた。休日の430MHz、色々な局の交信を聞きながら、無線の感覚を取り戻そうとした。思っていたよりも交信している人は多かった。聞くと不要不急の外出禁止要請から、家でできることアマチュア無線を楽しむ人が多くなったからだという。
私には無線界がこのコロナ禍を歓迎しているように見えてしまい、複雑な気持ちになった。「アマチュア無線が災害に強いというのなら、このコロナ禍こそ災害ではないのか」と強く思った。「コロナ禍での無線家の役割は何だろう」と自問するために無線を再開したのではとさえ思った。特に一番の被害者となった子どもたちのため、何かしてあげたい。
そして「無線を一生の友とするためにはどうしたらいいだろう」とも自問した。このふたつの自問に対する答えをすでに私は知っていた。無線からは10年も離れていたが、家族を支える場でも仕事の場でも、社会の一員として私はいくらかは成長していて、多くの人たちに支えられていることに気づける力を持っていたからだ。
そのためには、競いあう無線ではなく、支えあう無線をすればいい。ひとりでできないことを諦めず、他者と協力する無線をすればいい。ひとりひとりが個性を発揮でき、多様性を認めながらも、一体感を保ち続けられる無線をすればいいと。
21世紀を担う人たちには、私ができなかったことを達成してほしいと願ったとき、「こどもたちが自分の道を歩み、夢を叶えるために」と、星合さんと談笑した時のことをふと思い出した。リゾートホテルのような高齢者マンションを訪ねたとき、たびたび言われたこのメッセージは、もしや私への挑戦状なのではと気が付いた。 「私はこのような仕事をしたけれど、あなたはどんな仕事をするのかしら」と。
そして学生の頃に思いを馳せると、開局申請書の書き方から始まり、アンテナを設置するために一緒に屋根に上がってもらったりと、学生の頃は当たり前のように、近所のOMたちの世話になっていた。いつの間にか私は、当時のOMたちと同じ年齢になっていた。今度は私がサポートをする番だ。「こどもたちが自分の道を歩み、夢を叶えるために」に対し、アマチュア無線でなら応答できるかもしれない。
https://gyazo.com/ba705ccd83eab783d03c4db1e550275b
JN1GGZも復活させることにした。JI1YUSから1ヶ月遅れて再開局申請をした。2021年12月3日、帰宅すると「JN1GGZ」の免許状が届いていた。中学3年の時に免許状が届いたのは1980年(S55)12月、41年後に再び免許状が届いた。
免許状が届いたものの、さてどうしよう。わからないまま週末を過ごした。わからないがとにかく毎朝、仕事を始める前に430MHz FMでロールコールを始めた。この朝のひとときのコミュニケーションに、「朝練」と名づけた。それはラウンドQSOでもロールコールでもない、今までにない交信スタイルを目指した。交信相手だけでなく、ラジオ代わりに聴いている受信者たちにも伝わることを心掛けた。
再開してみるとアマチュア無線は面白かった。これは無線そのものが面白くなったというより、私自身が無線の面白さを見つけたり、作り出すせるようになったからだ。毎朝交信を続けることにより、数年はかかるコミュニティーが半年もかからずにできあがった。これは予期せぬことだったが、一方「そうなのか」とも思った。
「だれかの夢を叶えるための一端を担うこと」ひとりでできることはたかが知れているが、いくにんもで集まり活動するなら、大きな成果を得られるはずだと。朝練はR16FRの活動にとどまらず、無線イベントの自主開催へとつながっていった。
hr.icon
de JN1GGZ