5福音書の調和
トマスによる福音書の言葉の文脈をあきらかにしたい
参考: https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/148.html
ーーー共通部
いくつか共観福音書と共通の語録をみる
トマス20
弟子たちはイエスに言った。”天の国はどのようなものであるか、わたしたちにおっしゃってください”。彼は彼らに言われた。”それはどの種よりも小さい一粒のからし種のようである。しかし、耕された土地に落ちると、それは大きな枝をはり、空の鳥の隠れ場となる”。
共観福音書と平行
ディアテッサロンの17章8-12節
また、別のたとえを彼らに示して言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、どんな種よりも小さいのに、成長してどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
ここに弟子たちの質問はない。
54
イエスは言われた。”貧しい人々は幸いである。天の国はあなたがたのものであるから”。
山上の垂訓と平行。ルカにちかいか
100
人々がイエスに金貨を示し、そして彼に言った。”カイサルの人々が私たちから貢を要求します”。彼が彼らに言った。”カイサルのものはカイサルに、神のものは神に返しなさい。そして、私のものは私に返しなさい”
これも共観福音書と平行する。「私のものは~」はない。ディアテッサロン34章
その頃、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉尻を捕らえて、総督当局に引き渡すことができるかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ党の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
「先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをなさらないからです。 ところで、どうお思いでしょうか、お答えください。皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」
イエスは、彼らの偽善を見抜いて言われた。「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納める硬貨を見せなさい。」
彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。
彼らは、「皇帝のものです」と言った。
すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らは民衆の前でイエスの言葉尻を捕らえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
エジァトン・パピルスにもにたものがある
……彼らは尋{問しよう}と彼のほうへ近{寄って}きて、彼をこう{い}って試そうとした。「イエス先生、わたしたちはあなたが{神から}来られたことを知っています。なぜなら、あなたのなさったことが、すべての預言者たちにまさって、それを証拠{だてて}いるからです。{そこで}わたしたちに{語ってください}。王たちに{彼}らの権威に{属する}ところのもの(税金)を支払うべきでしょうか。どうでしょうか」。しかし、イエスは彼{らの意}図を見抜き、{怒}って彼{らに}いわれた。「なぜあなたがたの{口で}わたしを先生などと呼ぶのか。そして、そのくせわたしの言うことを聞{かな}いのか。イ{ザヤがあ}なたがたについて、このように預言して言っているのは正しい。「この{民は}その唇でわたしを{褒める}が、彼らの{心}は{わたし}から{遠く離}れている。彼らは{わたしを拝むが}そらぞ{らしい}。……いま{しめを……
ーーーやや平行
89
イエスは言われた。”なぜあなたがたは杯の外側を洗うのか。あなたがたは、内側を造った者が、また外側を造った者であることが分からないのか”
ディアテッサロン40:55-56、マタイ23:25-26
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
ルカ11:39-41
主は言われた。「なるほど、あなたがたファリサイ派の人々は、杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。
愚かな者たち、外側を造られた方は、内側もお造りになったのではないか。
むしろ、できることを施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。
なんとなくオクシリンコス・パピルス840を思い出す。別に並行ではない
. . . 悪事を行う前に、彼は巧みに理屈をこねる。彼らと同じ運命にならぬよう気をつけよ。人間の悪党たちは、生きている間だけでなく、後にも罰と苦しみを受けるのだから。」
彼は彼らを連れて、清めの場に入り、神殿の中を歩き回った。すると、レビと呼ばれるパリサイ派の大祭司が彼らのところにやってきて、救い主に言った。「だれがあなたにこの清めの場を歩き回ることや、これらの聖なる器具を見ることを許したのか。あなたは洗っていないし、あなたの弟子たちも足すら洗っていないではないか。それなのにあなたはこの神殿の清い場を汚して歩き回ってるが、この場所には身を洗って服を着替えた人だけが歩くことができる。さらに、そのような人でさえもこの聖なる器具を見ようとはしない。」
弟子たちの近くにいた救い主は彼に答えた。「この神殿にいるあなたは清いのか。」
彼は答えた。「私は清い。ダビデの池で身を清めたのだから。階段を下りて池に入り、別の階段を上がった。それから、白い衣を身にまとった。それらはみな清いものであった。それらを終えてから、私はここに来て、これらの聖なる器具を見たのだ。」
救い主は彼に答えて言った、「見えない者は災いだ。あなたは犬や豚が昼も夜も投げ込まれる流水につかり、それも外側の皮膚をこすって洗っただけではないか。その皮膚は、娼婦や笛吹き女が男たちの欲望のために化粧を塗りたくり、また洗いこする皮膚なのだ。しかし、その内側はサソリやあらゆる不義で満ちている。だが、あなたが洗っていないと言う私と私の弟子たちは、天の神から来る永遠の命の水で洗ったのだ。災いなのは、それらの. . .
65
彼は言われた。”ある善人が葡萄酒を持っており、それを栽培者たちに貸した
。それは彼らがそこで働き、彼が彼らから果実を受けるためである。彼は彼の
僕を遣した。栽培者たちが彼に葡萄園の果実を渡たすためである。彼らは彼の
僕を捕え、彼を打ち、彼を殺さんばかりにした。その僕は来て、主人に告げた
。彼は主人に言った。[たぶん、彼は彼らを知らなかったのだ]。彼は別の僕
を遣した。栽培者たちはこの僕をも打った。すると主人は彼の息子を遣した。
は言った。[たぶん、彼らはわたしの息子を重んじるであろう]。しかしこ
の栽培者たちは、彼が葡萄園の相続人であることを知ったので、彼を捕え、彼
を殺した。聞く耳のある者は聞くがよい”。
まあほぼ平行
96-97
イエスは言われた。”父の国はある女のようなものである。彼女が少量のパン種を取って、粉の中に隠し、それを大きなパンにした。聞く耳ある者は聞くがよい”
イエスは言われた。”父の国は、粉を満たした壺を担い、ある遠い道を行く女のようなものである。壺の耳が壊れた。粉が彼女の後ろ、道に流れ落ちた。しかし、彼女はそれに気づかなかった。彼女は禍を知らなかったのである。彼女が家に着いたとき、彼女は壺を下に置き、それが空であることを発見した”
97は福音書に平行箇所がない。ディアテッサロンのどこに挿入するのが適切だろうか。
96のパンだねのたとえのあとにおくのが無難か。
とすると、ディアテッサロン17章13-15あたり
また、別のたとえをお話しになった。「神の国を何にたとえようか。 天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。
これに追加する
聞く耳ある者は聞くがよい」
また、別のたとえを言われた。「神の国は、粉でいっぱいの壺を担いで、遠い道を行く女に例えられる。その壺の耳が壊れてしまい、粉は道にこぼれ落ちた。しかし、女はそれに気づかなかった。女は災いを知らなかったのだ。家に到着したとき、壺を地面に置いて、その中身が空であることに気付いた。」
余談
97はあまり意味がわかっていなかったんだけど、「彼女は禍を知らなかったのである」とかいてあった。
ツボにあいた穴って、罪とかそういうなにかで、わざわいやくるしみをとおして、その穴にきづくことができる。
わざわいがなければ、最後まで穴に気づかないよ。
そういう内容かな。
そうなると、96や20のようなたとえとは意味合いがおおきくちがう。だから、置く場所もかえたほうがいいかも。
十人の乙女のたとえとか
あるいは、
48
イエスは言われた。”ふたりの者が同じ家で平和のうちに共にいるならば、彼らは山に向かって[移れ]と言うであろう。そして、それは移るであろう”。
ルカ10:5-7と関連。
どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る。
その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へと渡り歩くな。
マタイ17:20
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。よく言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなたがたにできないことは何もない。」
ルカ17:6
主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
マルコ11:23
よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
マタイ21:21
イエスはお答えになった。「よく言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。
ディアテッサロン33:5-10
あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」 イエスは言われた。
「神を信じなさい。 よく言っておく。心の中で少しも疑わず、
言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
さて、使徒たちが、「私どもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。
信仰の話が、平和の話に変わっている。
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98
イエスは言われた。”父の国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕がやり遂げるかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した”
どこにも平行はない。文脈や意味が不明でどこにおくべきかむずかしい。
この世は殺人=死(?)の練習段階であって、神の国は実現ということ?
いやどういうこと?
高官がむずかしい。これを自己ととらえて、洗礼(=生まれ変わり)についてのたとえととるか?練習とは?
んー、正統派的にとるならば精神的な戦い、かな。
高官って悪霊とか、なんかそういうものだろう。強力な存在や障害物、あるいは敵のようなもの。
ただ立ち向かうのではなく、じっくりやらないといけない。みたいな。
それともイエス自身のことか。
十字架での死と復活を「壁に突き刺す」と表現。高官を殺す、とは、終わりの日に滅ぼされる悪霊たちを指す。
みたいな
関連しそうなことばをかんがえる
ルカによる福音書/ 14章 31節
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうかを、まず腰を据えて考えてみないだろうか。
トマス35
イエスは言われた。”だれも強い人の家に入って、彼の両手を縛らなければ、それを奪い取ることはできない。そのとき、彼は彼の家を略奪するであろう”。
トマス78
イエスは言われた。”あなたがたは、何を見に野に来たのか。風に揺らぐ葦を見るためか。あなたがたの王やあなたがたの高官のような柔らかい着物をまとった人を見るためか。彼らは柔らかい着物をまとっている。そして、彼らは真理を知ることができないであろう”
ChatGPTくん
この言葉は、『トマスの福音書』(Gospel of Thomas)と呼ばれる古代のキリスト教のテキストに登場する言葉です。これを解説するために、いくつかの要点を考えてみましょう:
比喩の背後にあるメッセージ:
この比喩では、「父の国」という表現を使用しており、これは通常、神の国または神の支配を指します。そして、主要な比喩の中で、主人公は「高官」を殺すために努力します。この「高官」は一般的には強力な存在や障害物、あるいは敵を象徴しています。この比喩の中での主要なメッセージは、神の国に到達するためには、信仰者が努力し、困難に立ち向かう必要があるということです。
信仰と努力:
主人公は自分の腕力を試すために刀を壁に突き刺し、その手が十分に強いかどうかを確かめます。この部分は、信仰者が自己評価し、信仰の旅に備えるために努力する必要があることを強調しています。神の国を見つけるためには、信仰に続く行動と努力が不可欠であることを示唆しています。
勇気と決断:
最終的に、主人公は高官を殺すことに成功します。これは信仰者が困難に立ち向かい、障害を克服し、神の国に到達する決断を下す必要があることを示唆しています。この比喩は、信仰の旅が容易ではなく、勇気が必要であることを伝えています。
この比喩は、信仰と努力、決断と勇気に関連する重要なメッセージを伝えるものとされています。信仰者は神の国を見つけるために、自己評価し、困難に立ち向かい、信仰の旅に全力を尽くす必要があります。この比喩は、キリスト教の教えにおいて、神への信仰を持ち続け、困難に立ち向かうことの大切さを強調する一つの手段とされています。
ありがとうございます。トマス福音書98節は非常に印象的で、寓意性が高く、暴力的な比喩も含むため、**正典四福音書にそのまま組み込むには難解さと抵抗感**がありますが、文脈や語調を調整すれば挿入の可能性もあります。
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## 🔹トマス福音書98節の原文(意訳)
> **「父の国は、高官を殺そうとする人のようなものである。彼は自分の家で刀を抜き、自分の腕がやり遂げるかどうかを知るために、それを壁に突き刺した。それから、彼は高官を殺した。」**
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## 🧠 解釈とテーマ
* **父の国=準備と覚悟、実行の力が必要**
* 比喩構造としてはかなり「反体制的・黙示録的」で、
* 王(体制・世俗権力)=殺す対象
* **徹底した決断、自己確認、覚悟の確認**が焦点
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## ✅ 正典への挿入候補と修正案
以下、特に**文体と内容を調整して自然に馴染ませる**方向で検討します。
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### 📘 候補:ルカ14章「塔を建てる者・王に戦いを挑む者のたとえ」の前後
ルカ14:28-32 には、次のような文脈があります:
> 「あなたが塔を建てるとき、完成までできるかどうかをまず考えないか?
> … また、王が戦いに行くとき、まず勝てるかどうかを考える。」
このあたりは「準備と覚悟」の比喩として非常に近いです。
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### ✏️ 挿入例(ルカ14:32のあと、文体を調整)
`plaintext
…このように、あなたがたのうちで、自分の財産をすべて捨てないなら、私の弟子になることはできない。
【挿入】また、父の国は、ある者が権力者に立ち向かうようなものである。
その者はまず家で剣を抜き、自らの手がそれをやり遂げるか試みて、壁に突き立てた。
そして、確信したのち、彼はその権力者に立ち向かった。
`
#### ✅ 調整ポイント:
* 「殺す」→「立ち向かう」「倒す」など柔らかく
* 文体をルカ的に落ち着かせ、**反乱というより覚悟の比喩に変換**
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### 🧩 ディアテッサロン挿入の可能性
タティアノスの**倫理的・実行重視の編集方針**から見て:
* 明確な霊的寓話として編集すれば残りうる。
* 暴力性が問題視されるなら、別のたとえに改変も可。
* 例:「王に逆らうのではなく、真理を語るために立ち上がった者」
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## 🔄 別の可能性:ヨハネの受難直前(剣を抜くペトロ)
ヨハネ18:10:
> 「ペトロは剣を抜いて、大祭司の僕の耳を切り落とした」
ここに**伏線的に挿入**するなら:
#### 📝 意味合い変化例:
`plaintext
イエスはかつて言われた、「父の国とは、剣を抜く者のようなものだ。
彼はまず、自らの力で剣を扱えるかを試し、
やがて来る時のために心を整えた。」
`
→ ただしこの文脈では、「暴力の否定(剣を納めよ)」の主張と矛盾するので、あまり適さない可能性も。
---
## ✅ 結論
トマス福音書98節は、**ルカ14章の覚悟に関するたとえ話**に自然に接続できます:
* 内面的な覚悟と実行力を父の国の比喩として説いている。
* 暴力性を抑えて表現を調整すれば、**正典的文体に収まる**
* ディアテッサロンでも、倫理的寓話と見なせば挿入可能
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## 💬 次にやってみましょうか?
* 別の節(たとえばログオン3, 5, 113など)
* トマス福音書の中でも特に異色のもの(例:114節「女は命にふさわしくない」など)の可能性
* 架空のディアテッサロン本文構築(トマス挿入済)
ご希望あれば教えてください!
42
イエスは言われた。”過ぎ行く者たちのようになれ”。
これはインドに保存されていたはず。(福音書の平行箇所は存在しない)
あった。
マリアの息子、イサ(イエス)は言った:『この世は橋である。渡って行きなさい。しかしそこにすみかを建ててはならない。』。
https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/10/06/010156
これは関連しそうな場所をみつけて、そこにおけばよさそう。
インドのバージョンには続きがあって、一日を望む者は(それが)永遠(に続くこと)を望むが、世界はたったの一時しか続かない。それを祈りに費やせ、残りの時は見えないからだ。みたいな内容
十人の娘のたとえあたりとちかいんじゃないかな。