生きがい
梅棹忠夫『わたしの生きがい論』
神谷美恵子『生きがいについて』
なぜたのしいとおもうの?
なぜあきるの?
ゲームにはまるのはなぜ
さかなくんがさかなを探求できたのはなぜ
この種のよろこびは未分化な生命にもすでに宿っている
この種の喜び=発見のよろこび=生きがいの一種
だとおもうんだけど、生きがいは動物にはないのではないかな
自殺する動物をわたしがしらないだけかもしれないけれど
また、乳幼児に生きがいが必要かもわたしにはうたがわしくおもわれる。
その意味で、梅棹忠夫氏が、生きがいなどないほうがよい、というのもある程度理解する。
ただ逆説的に生きがいが人間にしかないのなら、生きがいはやはり人間らしいといえよう
人生に意味は必要であろうか。
意味というのは、世界のなかのことがらであって、人生という世界に意味など必要ないのではないか、
意味のないこと、目的のないことをすることこそよろこびなのではないか、
そういうかんがえはたしかにある
ほうとうにそうだろうか
意味が、ほんとうにいらないのか
「私」はそもそもない、
不安定で、たまたま、相対的に存在しているだけで、なにかに吸収されればなくなってしまう、
そんなかんがえで、ほんとうにいいのか
そうこういいながら、ほうとうは「私」の喪失を、どこかでおそれているのではあるまいか
世界の無意味さから、目をそむけているのではあるまいか
目をそむけることでしあわせにいきられるならそれでよいではないか、
それこそ信仰ではないか、
たしかに一理ある
もっとも多くいきた生きたひととは、もっとも長生をしたひとではなく、生をもっとも多く感じた人である
ルソー『エミール』
もし神が生命なのだとしたら、神に到達することと生存充実感がイコールになるのではないか?
幸福とは独立性にあると一見思われるものかもしれないが、実際はその逆さまなのだ
p26
コフートにも通じてくる
真の愛は他の生命を伸ばそうとするものなのであるから、何らかの意味で自己の身を削らないで済むような愛は愛という名に値しないと言える
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存在理由と生きがい感は一緒であるか?
存在の根幹に関わるのが存在理由だとしたら、生きがいというのはもっと広い気がする
アニメをみるとか、あたらしいゲームの発売をまつこともいきがいにならないだろうか?
存在の根幹ってなんだ…?
極端な話幸せになれる薬を飲むことを生きがいにして生きることだって可能ではない?
それはさ自分がなぜ存在しているのかというレベルには達してなくないか?
存在理由が人や物が、なぜ存在しているのか、その目的とか、不可欠な理由だとして、生きがいは人がいきているたのしみだよね
存在理由は過去と未来。生きがいは現在と未来。こんな感じかな。未来は共通してる。
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この時は、明らかに認知上の問題となってくるわけで、大まかに行って次のような問いが発せられるわけであろう。1。自分の生存は何かのため、または誰かのために必要であるか?2。自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているのか?3。以上、あるいはその他から判断して、自分は生きている資格があるか4。一般に人生というものは生きるのに値するものであるか?
初めの三問のうちでも第1の「自分の存在は何かのため、または誰かのために必要であるか」が、肯定的に答えられれば、それだけで十分生きがいを認める人が多いと思われる。老年期の悲哀の大きな部分は、これに十分確信を持って答えられなくなることにあろう。したがって、もし老人に生きがい感を与えようと思うならば、何なり老人にできる役割を分担してもらう方が良いし、また何よりも愛の関係において、老人の存在がこちらに取って必要なのだと感じてもらうことが肝要となる
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例えば手術をして前頭葉の一部を傷つけられた人は毎日何の目的もなく茫然と暮らしていても平気になる。終戦後、一時この手術がはやったので、今でも大きな精神病院をたずねると病連いっぱいに、この手術を受けた人がゴロゴロしているところがある