正教的キルケゴール『死に至る病』
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死に至る病 ―絶望についてのキリスト教的・正教的心理学的省察―
序説に代えて
絶望は「死に至る病」である。これを聞いて、人はこう反論するかもしれない。「死なない病こそが最も残酷な病ではないか。死が病の終焉であるなら、『死に至る病』とは矛盾である」と。おお、その通りである。そしてまさにこの矛盾こそが、絶望の苦しみの核心なのである。絶望とは、終わりなき死、死を死ぬことすらできぬという病なのである。肉体は生きながら、霊魂は――その本来の命である神との交わりにおいて――死につつある。これがすなわち、「死に至る病」の真の意味である。
さて、この病の本質は、自己自身であることを欲しないか、あるいは自己自身であろうと欲するがゆえに、自己自身から逃れようとする点にある。しかし、ここで我々は、西方の兄弟たちがしばしば見落とす、さらに深淵な次元に目を向けねばならない。すなわち、この「自己」とは何か、という問題である。
西方の神学が「義とされた自己」を論じる時、それはしばしば法廷における宣告のイメージを帯びる。しかし、正教の光のもとで見るならば、真の自己とは、神の栄光の似姿として創造され、神化 へと召された存在なのである。絶望とは、この「神の似姿」としての自己を見失い、神との交わり という本来の土壌から自己を引き剥がし、それを地上の、時間的な、有限なものだけによって定義しようとする、恐るべき試みなのである。
ゆえに、絶望には二つの様相がある。
第一は、神の似姿であることを絶望 すること。これは自己の卑小さ、罪深さに圧倒され、神がその内に宿る宮殿である自己を、単なる土くれの家と見做してしまう病である。
第二は、より深い絶望、自己の力によって神の似姿になろうと絶望 すること。これは、己の意志、己の功績、己の苦行のみに頼り、神の恩寵による「無為」の受容を拒む、高慢の病である。この者は、自らを神の協働者となるどころか、自分自身の救い主に仕立て上げようとする。これは、神なき自己であろうとする絶望であり、まさに原罪の核心をなすものだ。
では、この病からの回復はどこにあるのか?それは、単に罪の赦しを理性的に認めることではない(それは重要だが、始まりに過ぎない)。それは、教会という神秘的な身体 の礼拝と祈りの中で、自己を無として神の前に差し出し、神のエネルゲイア(働き)によって、歪められた似像が再び光り輝き始めるのを、謙遜と忍耐をもって待ち望むことにこそある。それは、己の力による「跳躍」というよりは、むしろ、全ての重荷を下ろし、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の御名の祈りの中で、自己を放棄する受動的な行為なのである。
「信仰によって初めて、自己は、自己自身であろうとする絶望から、神の前における自己へと透明になる」――この我々の命題は、西方のそれと同じである。しかし、その「透明」とは、単に神の審判の光を通し見られることではなく、神の変容の光が、自己を通して輝き始める状態を指すのである。
この書が、たとえ一人の読者の魂にとってであれ、そのような真実の光への、ほのかな道標となることを願って。
第一章 絶望とは「神の似姿」である自己を見失う病である
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人間は霊魂である。あるいは、霊魂こそが自己の根底である。ところで、霊魂とは何か? 単に理性や意志や感情の総体としての魂ではない。真の霊魂とは、神と交わるように創造された存在、すなわち、神の息吹を受けた「生ける霊」なのである。この霊が、自己の中心であり、土台である。そして、この霊が、神との生ける交わりの中にある時、自己は本来あるべき姿、つまり「神の似姿」として立っている。
絶望は、まさにこの土台に対する病である。絶望している者は、この「生ける霊」としての自己を見失い、あるいは拒否している。彼は、自己を、その偶有的な属性――才能、財産、社会的地位、あるいはその欠如――によってのみ定義しようとする。彼は「私は貧しい者だ」とか「私は評価されない者だ」と言って絶望する。しかし、おお、なんという倒錯だろう! 彼は、自分が何者であるかではなく、自分が何を持っているか、あるいは持っていないかにこだわっている。これは、皇帝の息子が、自分が着ている汚れた上着のせいで自分は乞食だと思い込み、父たる皇帝の宮殿へ帰る道を忘れてしまうようなものだ。
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ここで、我々は教父たちの知恵を借りねばならない。彼らは「神の似姿」と「神への類似」とを区別した。似姿とは、人間が本来備えている神との交わりの可能性、その根源的な尊厳である。それはたとえ罪によって曇らされても、決して失われることはない。一方、類似とは、恩寵により、自由な意志の協働によって、この似姿を完成へと近づけていくプロセス、すなわち神化の道程なのである。
絶望の第一の形態は、この「似姿」を見失うことにある。罪と悲惨さに目がくらみ、自分の中に神の刻印がまったく存在しないかのように振る舞う。これは、一見謙遜のように見えるが、実は神の創造の業への不信なのである。それは、「私はあまりに罪深く、神の似姿などではない」という絶望である。この絶望は、叫ぶ。「私は自分自身であってはならない!」と。
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しかし、より陰険で深い絶望がある。それは、第二の形態、つまり「神への類似」を己の力で達成しようとする絶望である。この者は、「似姿」の尊厳を認めるばかりか、それに驕る。そして、修練、知識、あるいは敬虔な行いそのものによって、自らを神に近づけようと躍起になる。彼は、信仰の生活を、神の恩寵による変容のプロセスとしてではなく、己の功績を積み上げる「事業」としてしまう。
この絶望は囁く。「お前は自分自身であらねばならない。しかも、お前自身の力で!」と。これは、神の恩寵を必要としない、あるいは恩寵を自分で管理できるという、根本的な高慢なのである。この種の絶望は、敬虔な仮面を被っているがゆえに、最も危険であり、発見されにくい。彼は教会に通い、断食をし、祈りさえもする。しかし、その全てが、自己義認の手段と化している時、それらは神との生ける交わりへの妨げにすらなりうる。彼は、神の似姿である自己を、自分自身で「完成品」に作り変えようと絶望しているのである。
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では、この二重の罠から如何にして脱出しうるのか? その道は、この「似姿」と「類似」の区別そのものの中に示されている。我々は、まず、自分が「神の似姿」として創造されたという客観的な事実を、信仰をもって受け入れねばならない。これは、自己の感情や業績に関わらない、存在論的な尊厳である。たとえ罪で泥だらけでも、金貨は金貨である。この事実を、己のあらゆる悲惨さのただ中で信じること、これが第一のステップである。
そして第二に、この「似姿」を輝かせる「類似」への道は、己の努力によって切り開くものではなく、神の恩寵によって与えられるものであることを認めねばならない。それは、無為の態度、すなわち、自己の意志を静め、神の働きかけを受容する用意を持つことなのである。画家がイコンを描く時、彼はまず木板を準備する。それは受動的な行為である。しかし、その受動性なくして、画家の筆は意味を持たない。我々の魂という木板を、神の筆が描くために準備すること――それが、謙遜であり、待望なのである。
絶望は、この受動性を耐えられない病である。それは、自己を能動的な主人公に仕立て上げずにはいられない。しかし、真の自己、すなわち神の前における自己は、能動と受動を超えた次元にある。それは、神の息吹を受けて「生きている」という、根源的な関係性そのものなのである。
第5節 絶望は関係性の病であり、それは「協働」の破綻である
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先に、自己を「神との生ける関係性」そのものと規定した。ならば、絶望がその関係を破壊する病である以上、それは必然的に、他の関係性にも亀裂を走らせる。すなわち、自己と隣人、自己と被造世界、そして自己と教会共同体との関係においてである。
西方の個人主義的な文脈では、絶望はあまりにも「単独者」の闘いとして描かれがちである。確かに、決断の瞬間において個人は孤独である。しかし、その闘いが行われる場は、決して真空ではない。それは、祈りのうちに支え合う聖徒の交わりという、見えざるネットワークの只中なのである。ゆえに、正教的な視点から見るならば、絶望には第三の様相、すなわち「協働」からの離脱による絶望が存在する。
この絶望に陥った者は、自分を「孤島」であると誤認する。彼は、教会の礼拝が単なる儀式の繰り返しに感じられ、兄弟姉妹の祈りが空虚な響きに聞こえる。彼は、自分は誰にも理解されず、誰とも結ばれていない、と考える。しかし、これは恐るべき倒錯である。なぜなら、彼が感じているその「孤立感」そのものが、彼が依然として共同体の一員であり、その交わりを――たとえ否定的な形で――必要としていることの、生ける証左だからである。飢えを感じる者は、栄養を必要としているのであって、栄養の無効性を証明しているのではない。
彼は、自分が教会の身体から切り離された一個の細胞のように感じている。しかし、切り離された細胞は死ぬしかない。彼の絶望は、この「霊的な死」の予感なのであり、それゆえにこそ、「死に至る病」なのである。
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この「協働」からの絶望は、二つの形をとる。
第一は、受動的な孤立である。この者は、臆病さや羞恥心から、あるいは単に無気力から、共同体との生ける接触を断つ。彼は傷つくことを恐れ、自らの絶望を隠すために、人々の目から遠ざかる。彼は、イコンに覆いをかけられた聖人のように、その内側で輝きを失っていく。彼の叫びは、「私はあなたたち(教会)と共にあってはならない」である。
第二は、より能動的で、したがってより危険な反抗的な孤立である。この者は、共同体そのものに絶望し、その不完全さ、形式主義、成員の弱さを非難する。そして、自らを「残れる者」「真に目覚めた者」と位置づけ、他の者たちを見下す。彼は、教会という身体を、自分という「頭脳」が導かねばならない重荷と感じている。彼の叫びは、「私はあなたたち(教会)のような者たちと共にあってはならない」である。
どちらの場合も、核心にあるのは高慢である。前者は「私は愛されるに値しない」という高慢であり、後者は「私は彼らよりも価値がある」という高慢である。そして、あらゆる高慢は、究極的には神に対する高慢である。なぜなら、神がその憐れみをもって築き上げ給うた共同体を、自らの判断で退けることだからである。
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では、この病的な孤立から、如何にして回復しうるのか? その道は、驚くべきことに、能動的な行動よりも、受動的な開けにある。
それは、自らを孤立させようとする意志の力を放棄し、たとえ無感覚であっても、ただ教会の扉をくぐり、礼拝に身を置くことである。それは、祈りの言葉が心から湧いてこなくとも、唇を動かして伝統の祈りを唱えることである。それは、隣人の信仰が浅く見えても、その隣で同じように十字を切ることである。
ここに、正教の靈性の深い英知がある。形式が内実を生みうる、のである。行動が感情に先行しうる、のである。なぜなら、その形式や行動の向こう側に、それを生かす神の恩寵が働いているからだ。病人が、食欲がなくとも医師の指示に従って栄養を摂取するように、霊的な病人である絶望者は、感覚がなくとも、教会という「病院」 が提供する「治療法」に身を委ねるのである。
この「受動的な開け」、この「形式的な参与」は、高慢な自己の最後の砦にとって、最大の侮辱である。それは、自己の感情や判断を最終的な審判官とする態度を、静かに、しかし確実に無力化していく。そして、やがて、外側からの形が、内側の実質へと浸透していく時、その魂は、自分が決して孤島などではなく、広大な大陸の一部であったことに、ふと気づくのである。
第二章 絶望は人間の必然か、それとも偶有か ― 絶望の普遍性について
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「絶望しない者は一人もいない」。
この命題は、あまりに暗鬱に響くかもしれない。それは人間性そのものに対する冒涜のように聞こえるだろうか? しかし、我々がここで論じているのは、日常的な憂鬱や一時的な失意ではない。それは、先に規定したような、「自己」の根底に関わる「関係性の病」なのである。この深い意味において、この命題は厳然たる真理なのである。
では、何故、そうなのか? その理由を、西方の「原罪」論ではなく、正教の「祖先の罪」の教義を通して覗いてみよう。我々が「罪」を継承するという時、それは必ずしも、遠い始祖の違反行為に対する無限責任を、個人が負わされるという法廷的な意味ではない。それはむしろ、一つの病的な状態、すなわち、死と腐敗と、神からの分離が、人類というひとつの身体に蔓延しているという、存在論的現実を指す。
人間は皆、この腐敗の病に冒されて生まれてくる。それは、自己の内なる「神の似姿」が曇り、その輝きを弱められている状態である。そして、この腐敗の状態そのものが、絶望という「霊的な感染症」に対する、極度の感受性を我々にもたらすのである。健全な肺は塵埃に抵抗できるが、病める肺はわずかな細菌にも侵されるように、腐敗という病的状態にある人間の霊は、人生の苦難、誘惑、喪失といった、あらゆる出来事をきっかけに、容易に絶望という重篤な病態へと移行しうる。
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ゆえに、絶望の「可能性」は、この腐敗した人間条件において、普遍的であり、必然的ですらある。それは、誰もが罹患しうる病の素因を、誰もが等しく持っているということだ。しかし、ここで重大な区別をせねばならない。絶望に「陥ること」そのものは、必然ではない。
この区別こそが、すべての鍵である。我々は、腐敗の状態に置かれているがゆえに、絶望の誘惑を絶えず受ける。しかし、その誘惑に同意し、それに身を任せ、自己をその病態と同一視するかどうかは、――ああ、なんという重みと責任だろう――その個人の自由に属するのである。絶望は、人間の条件がもたらす「試練」であるが、それは「運命」ではない。
この点において、絶望は「罪」と相似の形をとる。罪もまた、腐敗という普遍的土壌から生じるが、個々の罪の行為は、自由意志の同意によって成立する。同様に、絶望も、その可能性は普遍的だが、その現実化は、個人の自由な(しかし誤った)「決断」の結果なのである。それは、神が与え給うた自由の、歪んだ行使にほかならない。
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では、この普遍的な絶望の可能性に対して、希望はどこにあるのか? 希望は、我々の内側の、腐敗していない「健全な部分」にはない。なぜなら、そのような部分は存在しないからだ。希望は、我々の外側に、しかも我々と深く交わり給う外側にある。
希望は、イイスス・ハリストスの復活の出来事のうちに、そして、その復活の生命が、聖神を通して教会という身体に注がれているという事実のうちにある。ハリストスは、死と腐敗そのものを打ち破り、その毒牙を抜かれた。つまり、絶望が繁殖する土壌そのものが、根本から浄化される可能性が、歴史の中に導入されたのである。
これは、単に「罪が赦された」という以上のことである。これは、腐敗そのものが治療されつつあるという宣言なのである。教会は、この世にあってなお腐敗に喘ぎながらも、同時に、すでに到来しつつある神の国の、治療の前味なのである。聖体礼儀で拝領するパンと葡萄酒は、腐敗しない生命の糧である。洗礼の水は、腐敗の海から、生命の岸へと我々を運ぶ箱舟である。
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したがって、絶望に対する戦いは、孤独な個人の内面での戦いではなく、教会という病院における共同治療なのである。我々は皆、程度の差こそあれ、同じ病に冒されている。隣の患者が、自分より症状が軽いとか重いとか論じ合うことは無意味である。重要なのは、共に、唯一の大医者であるハリストスのもとに集い、彼が施す治療法――祈り、断食、聖礼典、慈愛の業――に共に参与することなのである。
「絶望しない者は一人もいない」。この認識は、我々を絶望へと導くのではなく、むしろ、謙遜へと導く。自分だけが特別に弱く、惨めだという幻想から我々を解放する。そして、この謙遜こそが、絶望の最大の敵である「高慢」に対する、最初にして最良の解毒剤なのである。
我々は皆、旅路の途中で、足にまとわりつく腐敗の泥に悩まされている。しかし、希望は、我々の足が泥でないことにあるのではなく、その足で、なおも巡礼の旅を続けられるという事実そのものにある。その旅路の果てに、腐敗も死も絶望もない、完全な神化の世界が約束されているからである。
第三章 絶望の表現形態について ― 弱さの絶望と反抗の絶望
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絶望という病が、いかに普遍的な素因に由来しようとも、それは個々の患者において、千差万別の症状を見せる。我々は今、この病の二つの主要な症例群を観察せねばならない。それは、自己自身であろうとする意志の「弱さ」に由来するものと、その意志の「過剰」に由来するものである。伝統的に、これらは女性的なるものと男性的なるものとに譬えられてきたが、それらは性別を超えて、あらゆる人間の魂に現れうる、二つの根本的な態度なのである。
サブセクションA: 弱さの絶望 ― 自己自身であることを「欲しない」絶望
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この絶望の形態は、一見、能動性の欠如として現れる。それは、自己を放棄し、自己自身から逃れようとする、消極的な逃亡である。この者は、自分自身の重みに耐えられない。彼は、神の似姿としての自己に伴う自由と責任を、「あまりにも大きすぎる荷」と感じ、それを降ろそうとあがく。
その叫びは、様々な形をとる。
「私はあの人のようになりたい」
「ただ平凡でいたい」
「私には何の価値もない」
これらの言葉の根底にあるのは、「私という、かけがえのない、神から与えられた自己であること」からの逃避である。彼は、隣人の人生、社会の評価、あるいは単なる無気力といった「より小さな殻」の中に、自己を移し替えようとする。
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正教の光に照らせば、この絶望は、謙遜の病的歪みである。真の謙遜とは、自己の真実の姿を神の前で認めることであり、それは力と自由をもたらす。しかし、ここで見られるのは、その反対である。それは、自己を過小評価することによって、神の創造の業への不信を表明している。『神がお前を「神の似姿」として創造したなど、ありえない。お前はただの塵に過ぎない』――この囁きに、彼は屈服してしまうのである。
この状態は、しばしば「アクィディア」、すなわち霊的無気力と結びつく。祈祷はおろそかにされ、教会への出席は面倒に感じられ、すべての霊的努力が空虚に思われる。彼は、自分が神の宮殿であることを忘れ、その廃墟の中に座り込み、雨風が吹き抜けるがままに任せている。彼の絶望は、荒涼とした、そしてどこか「甘美な」諦念の色を帯びている。それは、苦しみではあるが、そこにはある種の「安心」がある。自己であることの責任から解放された、誤った「平安」である。
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この病に対する治療法は、驚くべきことに、行動よりも受容にある。彼に「自己であれ」と命じることは、病人に「健康であれ」と命じるようなものだ。むしろ、彼が必要とするのは、自分が既に神の似姿として愛されているという事実を、静かに信じることを学ぶことである。
それは、壮大な感情や確信を必要としない。それは、曇天の日に太陽が依然として存在していると信じるように、たとえ実感がなくとも、教会の祈りの中で、聖師父の言葉に耳を傾けながら、その真理を「頭で」理解することから始めればよい。やがて、その真理が、心へと、そして魂全体へと浸透していくのである。受苦者シメオンが言うように、「我らは沈黙せよ、沈黙よりして光生まる」のである。
サブセクションB: 反抗の絶望 ― 自己自身であろうと「欲する」絶望
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第一の絶望が「弱さ」の病であるなら、こちらは「力」の病である。これは、自己自身であろうとする意志が、その正しい土台から切り離され、無限に、そして神に対して膨張した状態である。この者は、自己を放棄するどころか、自己に固執する。いや、それ以上に、自己を神の位置に据えんとする。
その叫びは、しばしば沈黙に包まれている。それは、言葉ではなく、生き方そのものとして表明される。
「私は私の法則によって生きる」
「私は我が運命の創造者である」
「神などいない。いるとすれば、それは我だ」
これは、最も深刻な絶望である。なぜなら、それはしばしば、勝利と栄光の仮面を被っているからだ。この絶望に冒された魂は、自己陶酔的で、時に英雄的にさえ見える。
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正教の観点から見れば、これは高慢の純粋な発露であり、原罪の核心的反復である。この者は、神の恩寵による「神化」のプロセスを拒否し、己自身の力で「自己神化」を成し遂げようと絶望する。彼は、神の協働者となることを拒み、孤高の創造主たらんとする。
この病は、世俗的な領域では、天才、独裁者、あるいは飽くなき成功追求者として現れる。宗教的な領域では、それは、厳格な修行主義、他者への冷酷な審判、そして「自分は特別に選ばれた者である」という確信として現れる。彼は、祈りにおいてさえも、神と交わっているのではなく、自己の霊的達成を称賛しているのである。
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この病的な反抗は、その本質において、真の自己からの離反である。彼が必死に構築し、維持しようとしている「自己」は、神の前における透明な自己ではなく、不透明で、閉鎖された、自己完結した偶像に過ぎない。彼は、自分自身の彫刻家となり、己のイメージを石に刻み続ける。しかし、その像は、たとえ如何に美しくとも、命を持たない。
この絶望からの回復は、最も困難である。なぜなら、それはまず、この者が自分が病んでいることを認めねばならないからだ。そして、彼にとって、それは「勝利」からの転落、「強さ」からの堕落として映るに違いない。
その突破口は、往々にして挫折である。自己の力の限界が、痛切に、残酷に暴露される瞬間——病、老い、失墜、愛するものの喪失——を通して、初めて、彼の頑丈な殻にひびが入る。そして、そのひびから、謙遜の光が差し込み始めるのである。それは、自分が創造主ではなく、被造物に過ぎないという、苦いが解放的な真理への気づきである。
第四章 絶望の克服 — 信仰への「道」
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絶望がこれほどまでに深く、複雑な病であるならば、その治療法は、単純な処方箋や、一つの決定的な「跳躍」によっては訪れない。それは、全人的な方向転換であり、生き方そのものの変容である。我々はそれを「回心」と呼ぶ。これは、単に道徳的な改善ではなく、存在の根底から、自己を神へと向け直すことであり、絶望という内なる「旋回」から、神を中心とする「正しい旋回」へと軌道を修正することなのである。
3.1 回心 — 方向の転換
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回心は、まず悔い改めから始まる。しかし、正教的 understanding において、悔い改めは、罪のリストを悔やむこと以上を意味する。ギリシャ語で「メタノイア」とは、「心の変化」「考えの転換」を意味する。それは、自己の内に閉じこもり、自己を偶像視し、あるいは自己を蔑むという、絶望のあらゆる形が、根本的に「方向」を誤っていたことに気づくことである。
この気づきは、しばしば「痛みを伴う光」として訪れる。それは、今まで自己の栄光や悲惨さを照らしていた歪んだ蝋燭の灯りが消え、代わりに神の憐れみという、厳しくも優しい光が差し込む瞬間である。この光の中で、自己の高慢も、自己憐憫も、そのどちらもが、等しく神からの逸脱であったことが明らかになる。
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この回心は、決して一度きりの劇的な体験だけではない。それは、生涯をかけたプロセスである。東方の教父たちは、それを「不断の回心」と呼んだ。絶望という病は慢性病であり、その誘惑は生涯にわたって続く。だからこそ、回心もまた、毎日、毎瞬間、新たにされねばならない。それは、呼吸のようなものである。罪と絶望の汚れた空気を吐き出し、神の恩寵という清らかな空気を吸い込む。この絶え間ない呼吸こそが、霊的生命を維持するのである。
3.2 謙遜 — 真の自己受容
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回心によって方向が修正された魂が向かう先、それが謙遜である。謙遜は、弱さの絶望が偽装する「自己卑下」とは全く異なり、また、反抗的絶望の「自己主張」の正反対である。謙遜とは、自己の真実の姿を、神の前においてありのままに認めることである。
それは、二つの偉大な現実を同時に抱え込む力である。
第一に、自分が神の似姿として創造された、計り知れない価値と尊厳を持つ存在であるという現実。
第二に、その尊厳ある似姿が、罪と腐敗によって深く傷つき、曇らされているという現実。
謙遜の人は言う。「私は神の宮である。しかし、その宮は廃墟と化し、修理を必要としている」。この認識は、彼を絶望へと導かない。なぜなら、彼はもはや、自分自身の力で宮殿を修復しようとも、あるいは廃墟のまま放置しようともせず、真の建築者である神ご自身に、修復の業を委ねるからである。
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この謙遜は、静かな力をもたらす。自己の弱さを認めることができるからこそ、他者の弱さを裁くことをやめられる。自己の価値を神に由来すると知っているからこそ、世の評価や成功・失敗に振り回されなくなる。彼は、自分が「神の作品」であることを知っている。だから、他人の作品をいじり回したり、自分の作品を偽造したりする必要がなくなるのである。
これが、絶望の二形態に対する唯一の解答である。弱さの絶望は「自己であること」を諦め、反抗の絶望は「誤った自己」を捏造する。謙遜は、「あるがままの、しかし神の恵みによって回復されつつある自己」を、静かに、確かに受容する。
3.3 教会 — 治療としての共同体
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しかし、このような回心と謙遜は、真空状態では育たない。それは、教会という生ける有机体の内部でこそ、育まれるのである。教会は、単なる人の集まりではない。それは、神のエネルゲイア(働き) が満ちあふれる、恵みの場なのである。
ここで、絶望の治療における聖礼典の決定的な役割が明らかになる。
悔悛機密: これは、病的な自己内省を、癒しのための自己開示へと変える。聴罪師は心理カウンセラーではなく、神の憐れみの証人である。ここで、隠していた罪と絶望が「告白」され、光にさらされる時、それは悪魔の武器であった力を失い、神の憐れみによって包み込まれる対象へと変わる。
聖体機密: これは、絶望の孤島状態を打ち破る、最大の秘跡である。ここで、信徒は、単なる比喩ではなく、実質的に、キリストの体と血を共有する。それは、自己の内にキリストを迎え入れるとともに、同じパンと葡萄酒を共有する他のすべての人々と、神秘的な一体性へと招き入れられることを意味する。孤島は、もはや大陸の一部であることに気づくのである。
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したがって、信仰への「道」とは、孤独な個人が荒野を走る道ではなく、巡礼の行列が共に歩む道なのである。その道程では、時につまずき、時に道に迷う。しかし、前を行く者、傍らを歩む者、後ろから支える者がいる。そして、その行列全体を、見えざる大司祭であるハリストスが導いている。
絶望は「死に至る病」である。しかし、教会は、死そのものを経て復活に至った方の生命に満ちている。この生命こそが、絶望という病に対する、唯一の、そして完全な抗毒素なのである。治療は、すでに始まっている。我々に求められているのは、この治療が施されている「病院」に、身を委ねる勇気なのである。
(修正版)3.3 教会 — 恵みと「スキャンダル」の場としての治療共同体
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絶望からの回復が「共同治療」であるならば、その場は、神の恩寵が働く「病院」でなければならない。そして、この比喩において、我々は最も深いパラドックスに直面する。教会は、神によって設立された病院であると同時に、患者である我々自身によって運営されているという事実である。
ゆえに、この病院は理想的な場所ではない。そこには、医師を気取る他の患者たちの無知や、薬剤師の怠慢や、患者同士の感染に対する無頓着さが存在する。形式だけの礼拝、魂を込めずに唱えられる祈り、他者を裁く偽善的な敬虔——これらはすべて、この病院の壁に蔓延る「院内感染」なのである。これは、「キリスト教的世界」を装った、新たな絶望の温床となりうる。
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では、この「スキャンダル」(つまずき)の中で、如何にしてこの場が「治療の場」でありうるのか? 答えは、教会を、完成された聖人の集団としてではなく、悔い改めを続ける罪人の交わりとして見ることにこそある。
教会の不完全さは、我々を絶望へと追いやるべきではなく、むしろ、全ての者——司祭も信徒も——が、等しく癒しを必要とする患者であるという根本的な謙遜へと導くのである。この病院で最も危険な人物は、自分自身を「治癒した者」あるいは「医師」と自認する患者である。そのような者は、まさに「反抗的絶望」の、最も狡猾で霊的な形態に陥っている。
真の信仰とは、この不完全でスキャンダラスな共同体のただ中にあって、それでも尚、その共同体が提供する「治療法」——つまり、聖礼典と共同の祈り——に、自分自身の罪と絶望を担って参与することなのである。
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ここに、正教の聖礼典の深い意味がある。それは、教会の人間的な不完全さを超越して、直接に神の恩寵が働きかける「恵みの手段」なのである。
悔悛機密は、病的な自己内省を、神の前での癒しのための自己開示へと変える。ここでは、司祭という個人ではなく、キリストご自身が聴罪者であり、癒し手であるという信仰が要求される。
聖体機密は、我々の人間的な関係の狭さと傷つきやすさを超えて、キリストの体という神秘的な一体性へと我々を招き入れる。これは、我々が感じる感覚や感情とは無関係に、客観的に与えられた現実なのである。
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したがって、信仰者の課題は二重である。第一に、教会の人間的・制度的な現実に対して、批判的な覚醒を失わないこと。第二に、しかしながら、そのような現実のただ中でなお働き続ける神の恩寵の客観的な現実を、信仰の眼差しでもって見いだすことである。
このパラドックスの只中で、「単独者」は、共同体に埋没することなく、また共同体から離反することもなく、神の前における自己として立つことを学ぶ。教会は、この孤独で内面的な旅路において、不可欠な導きの灯りであり、霊的な酸素なのである——たとえ、その灯りが人間の手で時に曇らされ、その酸素が時に薄まることがあったとしても。
結び 絶望と希望 ― 「死に至る病」を超えて
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こうして我々は、絶望という名の病の、その深く暗い迷宮を巡り歩いてきた。その症状は、自己を見失う「弱さ」から自己を神と偽ろうとする「反抗」へと形を変え、さらには「聖なるもの」の仮面を被ってさえ現れる。我々はこの病が、単なる気分の落ち込みではなく、神の似姿としての自己との関係を蝕む、存在論的な病であることを見てきた。そして、その病巣が、我々の自由そのものの根拠である「霊」にまで達していることを知った。
この広範な診断は、我々を絶望の淵に突き落とすためにあるのではない。むしろ、病の本質をありのままに凝視することこそが、真の癒しへの第一歩なのである。闇を恐れて目を背ける者は、たとえ光の中にいても救われない。闇の正体を暴く者は、たとえ闇の只中にあっても、すでに癒しのプロセスを開始しているのである。
2
絶望は「死に至る病」である。しかし、ここに一つの逆説がある。この病を通して、初めて我々は、自己が「死ぬべきもの」を超えた何かであることを、否応なく知らされるのである。地上のあらゆるもの——健康、富、名誉、人間関係——が、もはや自己の土台として機能しなくなるその時、初めて、それらを超えた次元に、自己の真の土台が存在しうる可能性が見えてくる。
絶望は、すべての偽りの土台を爆破する破壊者である。その破壊の跡にこそ、揺るぎない土台——「神の前における自己」——が、初めて顔を現すのである。この意味で、絶望は、信仰への、歪ではあるが厳格な教師ですらあると言わねばならない。それは我々に、もはや何ものにも——自分自身の力さえも——依拠できないということを教え、そうしてのみ、完全に神に依拠するという態度へと我々を準備する。
3
では、希望はどこにあるのか? 希望は、我々の内なる感情の変わりやすさにはない。それは、我々が「感じる」ものではない。希望は、復活したハリストスという、歴史と信仰において与えられた客観的現実への、意志的な信頼の内にある。
ハリストスは、死そのもの——あらゆる絶望の最終形態——を通過し、それを打ち破った。ゆえに、今や、いかなる絶望も、もはや最終的な言葉を語ることはできない。病院たる教会が不完全であろうと、その患者である我々が何度も転ぼうと、この客観的な勝利の事実だけは、誰も否定できない。希望は、我々の内側から湧き出る楽観ではなく、我々の外側から——復活の朝から——差し込む光なのである。
4
読者よ、もしあなたがこれらの頁を読みながら、自分自身の内にこの「死に至る病」の兆候を認めるなら、それを悲観することなかれ。あなたがそれを病として感じ、苦しんでいるという事実そのものが、あなたの内に「霊」がまだ生きており、あなたが本来あるべき姿——神の似姿——を、曇りながらも尚、記憶している何よりの証なのである。
荒れ野で道に迷った者は、渇きを覚えるからこそ、水を探すのである。あなたのその絶望の苦しみは、神なき自己への渇きではないか? それならば、その渇きに耳を傾けよ。それがあなたを、生ける水の源へと導く道標であることを知れ。
5
さあ、この病院の扉をくぐれ。その中は、聖人の画廊ではなく、傷ついた巡礼者の宿場である。完璧を求めるな。むしろ、あなた自身の傷と、隣人の傷とを、癒し主の御前で共に差し出せ。
光が、闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
絶望は、「死に至る病」である。しかし、信仰にとって、それは「死を通して至る生命」への、苦くも尊い通過点なのである。
訳者解説
本書『死に至る病 ―絶望についてのキリスト教的・正教的心理学的省察―』は、セーレン・キルケゴール(1813-1855)の代表作『死に至る病』を、彼が仮に正教(東方正教)の文化的・神学的文脈に生きていたならば如何なる著作となったかを構想した、思考実験的テキストである。
1. 本書の成立と背景
原本であるキルケゴールの『死に至る病』(1849年)は、19世紀デンマークのルター派国教会という、彼の言う「キリスト教世界」に対する痛烈な批判として、また実存的個人の内面性を鋭く追求した著作として知られる。そこで描かれる「絶望」は、神の前における自己との関係の歪みとして定義され、その克服は「単独者」としての信仰の跳躍に委ねられていた。
本テキストは、このキルケゴールの問題意識を忠実に継承しつつ、それを正教という異なる精神的土壌に移植した場合の思想的変容を探求する。訳者の役割は、キルケゴールの哲学的厳密さと文学的感性を可能な限り模倣しつつ、正教の神学(特に神化論、協働、聖像神学)、霊性(謙遜、無為)、および典礼生活(聖礼典)の概念体系を織り交ぜ、新たな哲学的・神学的綜合を試みることにある。
2. 本書の核心的テーゼ
本書の核心は、キルケゴールの「絶望」概念を、正教的人間観の光の下で再解釈した点にある。
絶望の本質: 絶望は、単に「罪」の結果である以上に、人間の存在的目的である「神化」からの離反、あるいはそのプロセスへの病的な歪みとして捉えられる。
絶望の二形態: 弱さの絶望(自己自身であることを「欲しない」)は、謙遜の病的歪みとして、反抗の絶望(自己自身であろうと「欲する」)は、高慢、すなわち己力による「自己神化」の試みとして分析される。
克服の道: 絶望からの回復は、孤独な「跳躍」としてよりも、教会という恵みの場における「共同治療」として描かれる。しかし、それは教会を理想化することではなく、その人間的・制度的不完全性(「スキャンダル」) を認めつつ、なおそこで働く神の恩寵(特に聖礼典を通じて)に参与するという、パラドックシカルな信仰の態度として提示される。
3. 思想的意義と読者への誘い
本書の試みが示すのは、キルケゴールの思想が持つ普遍的な核心——内面性、実存、神の前における単独者——が、特定の神学的枠組み(ここでは正教)と交わることで、如何に豊かな変奏を生み出しうるかである。
西方キリスト教の読者にとっては、「義認」や「審判」とは異なる、「神化」と「交わり」を軸とした救済論が、絶望という人間の根源的状態に如何に応答しうるかを知る刺激的な機会となるだろう。他方、正教の読者にとっては、自らの伝統が、近代的個人の不安と絶望に対し、如何に深く、かつ批判的かつ建設的に語りうるかを、キルケゴールという比類なき対話者を通して再発見する契機となるであろう。
本書は、単なる空想的「もしも」の産物ではない。それは、キルケゴールの問いを正教の文脈へと「翻訳」することを通じて、両者の対話を促し、現代を生きる人間の「絶望」という病に対する、新たな診断と希望の可能性を探る、一つの真摯な哲学的試みなのである。
訳者解説(パターン2)
―「正教的キルケゴール」を試みる意図と方法について―
本書は、デンマークの思想家セーレン・キルケゴールの主著『死に至る病』を、東方正教の神学的光のもとで再解釈した試みである。すなわち、単なる翻訳ではなく、「もしキルケゴールが正教会の伝統の中で語ったならば」という仮想的文脈のもとに書き改められた一種の再構成である。ゆえに、原典の逐語訳ではなく、思想的翻案(transposition)と呼ぶべき性格を持つ。
1. キルケゴールと正教の邂逅
キルケゴールの『死に至る病』は、西方キリスト教の枠組み、すなわちルター派的恩寵理解と個人主義的内面性の伝統の中で書かれた。しかし、彼の「絶望」をめぐる洞察――人間が自己自身であろうと欲しながら、同時に自己自身から逃げる存在であるという逆説的構造――は、東方正教の人間学とも深い共鳴を示す。
正教の神学において、人間とは「神の似姿」(εἰκών τοῦ Θεοῦ)であり、神のエネルゲイア(働き)に参与することを通して「神に似る」(ὁμοίωσις Θεῷ)へと招かれた存在である。したがって、人間の堕落とは単なる法的な罪責ではなく、この「交わり」そのものの断絶、すなわち関係の破壊である。
この観点から見るなら、キルケゴールの「死に至る病」とは、正教的には「神の似姿である自己を見失う病」、すなわち神との協働(συνεργία)の破綻として理解できる。
本書が提示するのは、まさにこの視点の転換である。
2. 「自己」の定義の再構築 ― 法廷的存在から聖化的存在へ
原典のキルケゴールは、自己を「有限と無限」「可能と必然」「時間と永遠」の綜合として定義する。そして絶望とは、この綜合の関係が自己自身のうちで不調和を起こす状態だと述べる。
しかし本書では、この定義をさらに正教的に深化させ、「自己とは神との生ける関係そのもの」であるとする。
つまり、「関係の関係」ではなく、「交わりの交わり」である。
これは、西方の存在論的個人主義に対する、東方的・聖餐的存在論(Eucharistic ontology)への移行を意味している。人間は孤立した存在ではなく、神と、教会と、被造世界との関係の網の目の中に生きる「交わり的存在」(communional being)として再定義される。
この視点の転換は、キルケゴールの思想を否定するものではない。むしろ、彼の「単独者(den Enkelte)」概念を、孤立的個人ではなく、神との関係における唯一無二の人格(πρόσωπον)として再解釈することで、正教の人間観との架橋を試みている。
3. 「二重の絶望」と「協働の破綻」
本書が特に独自なのは、絶望を二重に区分したうえで、さらに第三の次元――「協働の破綻」――を加えている点である。
第一の絶望:神の似姿であることを否定する絶望(卑小化の絶望)
第二の絶望:自力で神に似ようとする絶望(高慢の絶望)
第三の絶望:教会との協働を断ち、孤立する絶望(共同体からの離脱)
この三分法は、キルケゴールの二分法を東方的「教会的霊性」の中に拡張したものである。とりわけ第三の絶望の導入は、個人主義的救済観を超え、救いを「教会という身体の中の回復」として描く重要な転換である。
すなわち、救いとは心理的な慰めではなく、教会的・聖礼典的な癒しである。人間の「病」は個人の内部に閉じていないため、その治癒もまた共同的な行為でなければならない。
本書の比喩「教会は病院であり、聖礼典は治療である」は、この東方の霊性を端的に表している。
4. 絶望の普遍性と自由 ―「祖先の罪」からの視座
第二章において、本書は「絶望は人間の必然か、それとも偶有か」という問いを立てる。
ここで用いられているのは、西方の「原罪(original sin)」ではなく、正教の「祖先の罪(ancestral sin)」の枠組みである。
この教義において、罪とは法的負債ではなく、腐敗(φθορά)と死の支配という病的状態である。
すなわち、人間は「罪を負って」生まれるのではなく、「病に冒されて」生まれるのである。
この病的状態が、絶望という霊的感染症に対する「感受性」を全人類にもたらす。
しかし決定的なのは、絶望そのものが「自由の歪んだ行使」である点である。
人間はこの病に抵抗する力を自ら持たないが、それを「受け入れるか否か」という自由だけは残されている。
この自由が、神の恩寵と協働しうる唯一の接点――すなわち「悔い改め(μετάνοια)」――なのである。
5. 西方的「跳躍」から東方的「静止」へ
キルケゴールは、「信仰への跳躍(springet)」を人間の主体的決断の象徴として描いた。
対して本書では、その「跳躍」が「静止(hesychia)」へと転換される。
つまり、神の前での沈黙・無為・受容こそが、真の信仰の形であるという主張である。
この受動的な信仰理解は、正教の「ヘシュカズム(静寂主義)」に通じる。
自己の意志を鎮め、神の光(タボルの光)が魂に照り返るのを待つこと――それが、「自己を自己から救う」唯一の道である。
ここでの信仰は能動的跳躍ではなく、受動的開けであり、祈りのうちに神のエネルゲイアを迎える態度である。
6. 結語 ―「神の変容の光」を透かして
原典キルケゴールは、「信仰によって、自己は神の前において自己となる」と語った。
本書はこの命題を受けつつ、次のように言い換える:
「信仰によって初めて、自己は自己自身であろうとする絶望から、神の前における自己へと透明になる。」
ただしこの「透明」とは、裁きの光に晒されることではなく、「神の変容の光」が自己を透過し始める状態――すなわち神化(θέωσις)の始まりである。
絶望はその光を曇らせる病であり、信仰はその光を再び通す治療である。
付記:本書の位置づけ
本翻案は、キルケゴールを「正教化」する試みではなく、むしろ西方と東方のあいだに架け橋を築く思索的対話である。
キルケゴールの「絶望の心理学」は、東方の「神化の神学」において新たな生命を得る。
両者の出会いは、恩寵と自由、孤独と交わり、絶望と希望という、人間存在の根本的対立を、より深い霊的統合へと導く可能性を示している。
結びに
この翻案が、キルケゴールを「正教の衣」で覆うものではなく、むしろ彼の言葉に東方の光を差し込み、その深みにある「変容への渇き」を照らす試みとして読まれることを願う。
そしてもし、この書を読む誰かの魂の中で、絶望がわずかにでも静まり、神の似姿が再びその輝きを取り戻すならば、それこそが本書の真の目的の成就である。