二面的一体論
人間の精神と体について二元論も唯物論的一元論もとらないたちば
心と体を分けることで現代医学は長足の進歩を遂げてきたし、現在でもそれは続いている。しかし、一方では、心身症など、体のみ焦点を当てるだけでは解消しない病態も明らかとなってきた。
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ソームズらは、私たちはただ一つの素材から成る(一元論)ということを認めた上で、その素材は、本質において、精神的な存在でも物質的な存在でもないと考えている(ここが唯物論的一元論とは異なる点である)。この素材をソームズは、フロイトに倣って「心的装置」と呼んでいる。後述する山中(1993)の「こころ/からだ統一体」もこれに相当すると思われる。そして、「心的装置」は、外から対象としてみたときには物質的に見え、内側から主体として見られたときには精神的に見えるようなものであるとされる(それゆえ「二面的」と呼ばれる)。このような精神(心)と身体(脳)の区別は近くによって作り出されたものであり、私たちは、自分の感覚の限界を超えることができないので、「心的装置」自体を直接知覚することはできず、モデルを生成してその動きを推測することしかできないという。
放送大学教材『イメージの力』(佐藤仁美) 10章身体性とイメージ1(岸本寛史)
人間が、精神という規定の下で考察されずに(この場合、絶望について語ることもやはりできない)心と身体の総合としてのみ考察されてしまおうものなら、健康が直接的な規定ということになり、心や身体が病気になって、はじめて弁証法的な規定があらわれることになる。人間が精神として規定されていることを自覚していないこと、それこそがまさに絶望なのだ。
キェルケゴール『死に至る病』(鈴木訳)第一編B p.46