郊外
むろん、事件は複雑な因果の糸によって編まれており、それを今更したり顔で分析するつもりはない。また、実際に犯行に及ぶことと、それを事後的に納得することとの間には無限の径庭があることも知っている。 だが、 気がつけば、あのニュータウンの人工的な風景に、酒鬼薔薇聖斗を引きつけて、 彼との共通点を数え上げている自分がいることも確かだった。反戦後論 浜崎洋介 • 11ページ しかし、その選択ができてしまうという事態が、かえって 「夢」の街を 「虚構」化していたのではなかったか。つまり、一度も馴染んだことのない土地を観念として対象化し、 それを商品として買った瞬間、その選択自体が「他でもあり得た」という感覚を呼び起こし、場所への帰属感を偶有化してしまうのだ。 しかし、だからこそ、偶有性の彼岸に向けた焦燥が、 つまり、 その偶有性を乗り越える〈まだ見ぬ故郷=本当の私〉に対する過剰な自己演出が呼び出されてしまうのである。反戦後論 浜崎洋介 • 14ページ つまり、故郷から切り離されながら、しかし地元の伝統 (タテ社会)に頼るわけにもいかない 「団地族」は、その崩壊した地域の代わりに、 TV・雑誌・新聞・マニュアル本などのメディアを新たな 「世間」 (=標準モノサシ)とし、家族のなかに閉じていったというのである。 そして、その 「家族への内閉」こそが皮肉にも「家族の崩壊」という事態を招き寄せ、 宮台が「コンビニ化」、あるいは「第四空間化」と呼ぶ第二次郊外化の時代を導くことになる。反戦後論 浜崎洋介 • 18ページ 少なくとも、後に私が必要としたのは、政治的 「理想」や、私生活の「夢」や、記号の戯れに満ちた「虚構」によって自らの現実を吊り支えるというようなことではなかった。 すでに投げ込まれてしまった場所に 「融け込んでみたいと憧れをもちつづけ」 ながら、時間がたつのをただ待つこと。与えられてあるものの受容のなかに、 人と、場所と、物との関係の履歴を紡ぐこと。この交換不可能なものとの関係 (過去=歴史)、その固有の手触りだけを頼りに、私は私の輪郭を確かめてきたような気がする。 それが、かつて孤独のなかで他者を疑い、不安な独我論へと落ちていった私の、世界と私自身との 「和解」の仕方だった。反戦後論 浜崎洋介・25ページ 人は、選べないものを引き受けることによってのみ、 選び続けることの焦燥 (再帰的近代=偶有性の不安)を鎮めることができる。 とすれば、 私が古びた団地群に感じた落ち着きは、どこかで選ぶことを諦めてきたものたちへの、自由の限界を受け入れたものたちへの信頼と通じあってはいなかったか。 そのとき、 私は、半世紀以上のときを経た団地が、 私たちの意識を超えて、 「理想」 や 「夢」や 「虚構」の時代を超えて、ようやく「歴史」になろうとしていることを知った。反戦後論 浜崎洋介・28ページ