話がつまらない人の話
話がつまらない人の話のつまらなさをずっと考えてしまってる(そういうのを考えるのが好き。趣味)。
まず、話がつまらないには論理的に大きく二つ理由があって。一つはネタがおもしろくない。もう一つは語り方がおもしろくない。なので、つまらない話を聞いたとき、同じ話をおもしろく話せるかを考えてみると、前者か後者かがわかるようになっているのだけれど、なんかそれで解明できない「つまらなさ」の人を最近発見し、そういう人のつまらなさがとてもおもしろいと感じている。
どういうタイプかというと、逆エディット・ピアフとでも言おうか。エディット・ピアフは「電話帳でも彼女が読めばシャンソンになる」と言われた人なのだが、これの逆で「どんな話でも、彼、彼女が話すとつまらない話になる」という人がいる。 おもしろさを「熱」だとすると、静的につまらないというより、周囲がどんだけ頑張っても、熱をどんどん奪いつづけるような、そんな感じのダイナミックなつまらなさのある人がいる。
世の中には話がつまらない人なんか無数にいる。話が詰まらないことが悪いことだとは思わない。ただ、その手の「つまらない」人は割と自分に「つまらない」「ハナがない」と認識していて、話の中心になるのを逆に徹底して避けるんだけど、今、自分が研究しているつまらなさを持つ人は、むしろ自分が真ん中になぜか立ち、周囲のおもしろい話もすべて詰まらないに変換し、おもしろい話の芽はすべて摘み取り、その土地に塩をまくような人たちだったりする。
つまらないのにおもしろいと思っていて、周りをおもしろくしようとするその仕方が圧倒的につまらない、みたいな人。
悪口を言ってるのではなく、「なぜそうなるのか」がとても気になる、ということ。自分は結構その手のことはサクサク分析できるんだけど、この手のつまらなさだけは分析できないのでおもしろい。
まず、プライド高そう、思い込み強そう、というのがある。これだけで「スベっとるで」が言えないんですよ。「スベっとる」が言えないって「そんな暴力的なこと言えないほうがいい」って思うかもしれないけど、それも程度ややり方によりけりで、その場のほぼ全員が「スベってんな」と思ってるのに、それを口に出せなかったり、面白がってると語り手に思わせてしまうほうが、想像領域てまその人を仲間はずれにしてるのと同じなので暴力的だったりもする。
みんなでたとえば特定の漫画の話で盛り上がってるのに、その漫画の話の中に出てきた特定のワード、たとえば「電車」とかから、「私は電車に乗る時いつも……」みたいな話を突然しはじめ、特にその話がおもしろい話でもなく、長く、元のトラックに戻れない感じ。
自分へのツッコミ、「いじられる」ことには超敏感。だが、場のど真中には常にいたくて、ところが話は拾いようがないくらいつまらないという。 あとは、話の中心、コアがローカルすぎる。自分が毎日参加してる読書会とか、有名でない地方のさほど有名でないお土産が地元でどう評価受けてるかを当然の大前提にしたような話、くらいつきようがない……。
いわゆる自他境界ってことになるのかもしれないが、自分以外誰も思ってないことを「場のみんながそう思ってる」と強く思い込み、司会や話の中心になってる人に「みんなそう思ってるよ?」のように食いついてしまう。 実はこの「つまらなさ」の代表格は島田紳助なのだが、彼の場合は話術が巧みで権力があり、番組のプラスにもなる転がし方だったから可視化されてないだけだった。しかし世の中には話術も権力も自覚もない島田紳助が腐るほど存在する。この手の謎の仕切りたがり、なぜか「自分はこう思うよ」「こうした方がいいと思うよ」と言わず「みんなそうだよ」「客観的にそうだよ」と言いたがるのだが、そんなことを言う権利も能力も関係性も何もかもないから「誰??」ってなる。