笑い
では、そもそも 「笑い」 とは何なのか。それを一から考えようとしたとき、 未だに私たちはベルクソンの『笑い』以上の本を持っていないことに気づく。尤も、 ベルクソンの 『笑い』に対しては批判も多い。 ベルクソンが描く社会による矯正としての笑い、 (風刺的、 否定的な嘲笑) に対して、 “民衆による祝祭的な笑い (広場的、 肯定的な哄笑) を強調するバフチンの議論、あるいは、その延長線上に“デュオニュソス的な笑い〟 を持ってくるニーチェーバタイユの議論などは、 なるほどベルクソン以上の視点を提示しているかに見える。 が、 バフチンにしてもバタイユにしても、 ベルクソンの 『笑い』 を、 まずは自らの議論の土台としていることに違いはなく、その上でベルクソンの議論の全体というよりは、 その一部に修正を加えているというのが正確なところだろう。その意味では、 今もって 「笑い」 を理解する一番の近道は、やはりベルクソンと共に歩いてみることだと言ってよい。反戦後論 浜崎洋介 ・ 248ページ
田淵.iconもう全然違う話なんだけど、私はお笑いをほぼ見ない。漫才の中身がどうこうという話じゃなくて、観客の笑い声が気になってしまう。笑い声が上がるところのポイントで、そこの笑いのロジックは理解できるのだけど、自分の中から「爆笑」どころかかすかな笑い声すらも出てこないので、なんとなく不安な気持ちになってしまう。みんな楽しそうだなあ、とさみしげに微笑んでいる。ツボが違う、ということなんだろうか、と思ってるけど。https://social.vivaldi.net/@kitsunekirin/114554540800512064
moriteppei.iconこんなこと言うとおいおいと言われるかもしれないが、自分も他人の笑い声は「ウケの総量とその質」という単なる情報でしかほぼ受け取っておらず、なんならほぼまったく笑っていない。
観客の笑い声を聞いて、さみしくなったり不安になる感性って、めっちゃ当然だし、笑いの機能の一つは「同じ感情で複数の人間を1つにまとめあげる(とともにそうでない人間を排除する)暴力」なので、むしろ「わかってんじゃん」ってなる。
逆にこういうことに気づいてない「お笑い好き」がヤバい。今回の金属バットの漫才(金属バットのおもしろさを言語化する /「性別は2個なんじゃ!」はポリコレ的にアウトか?)も笑うというよりゾッとしてる。ただただまともなことを延々と言っている人が「ボケ」とされて、大衆の面前で大笑いされてるのだから。
で、その構造自体に「ふっ」ってなってしまうタイプ。お笑いは「そこ」が一番おもしろいんじゃないですか。