東京物語
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すっごい退屈。つまらない。とてもいい映画。という3つの感情が同時に味わえた不思議な映画。とにかくやたら人物ショットを切り替えるのと、俳優が全員「ああ」「やあ」から話し始めるのがイライラする。原節子が「いいえ」「いいえ」「いいえ」「いいえ」とショット切り替わるたびに「いいえ」を連呼するのには思わず笑ってしまったし「いいえ多すぎやろ」と思わず声に出してつっこんでしまった。最後に「とんでもない」とセリフを変化させるためにそうなっているのはわかるんだけど。 似たようなシーンが何度も繰り返される。それは「似てる」シーンとは「違う」シーンであるから、そのことの描写だからそうなっているのだが、まあ退屈、特に最初はあとでリプライズするための伏線みたいなものなのでますます退屈よね。中盤、「もう戦争はかんべん」などと言いつつ、後ろのパチンコ屋から軍艦マーチが流れてくるシーンとか、笑いもあるにはあるのだけれど。
母親が死んですぐに形見に着物を欲しがるような薄情でいかにも意地悪そうな顔の実の娘と、原節子演じる、どこも非のうちどころのないできた義理の娘といった対比もわざとらしすぎて鼻じらむ。でも、「子どもってそういうもの」「家族ってそういうもの」という突き放しがあるから観てられる。いや、この映画、実は結構説明的で説明過剰っすよ。あんまりそんなこと言われてなさそうだけど。自分がイライラしたのは「そこ」だったりする。
笠智衆演じる父と、母が「親」でしかないからそこの視点も相対化されてないと思う。自分たちだって実の親を看取ってきたはず。そのときどうだったのか。薄情だったのか。それとも親孝行してたのか。親孝行してたのなら、単に笠智衆の娘や息子が薄情なだけってことになってしまう。笠智衆も若い頃は親に対して薄情だったのではないか。だから自分たちが今されてることは「昔自分たちがしたこと」だから、どこか達観してるんじゃないか。 「家族とはそういうもの」「子どもとはそういうもの」。大人になればそれぞれの生活ができてきて、親なんてどうでもよくなる。それをそのまま原節子にセリフで言わせてるのも、どちらかというと芸術的というより大衆的で(小津の作品は興行成績もよかったらしい)、説明過剰に自分は感じるほうなので。そんなこと歳重ねて人生経験積んだら気づいていくやろ、そんな感慨で映画一本つくられてもなあと思うのだが、他の部分で落ち着いた、そして近代的自我の内面をあまり感じさせない淡々とした描写だからそれでバランスが取れていると思う。
最後、笠智衆に対し、近所の女の人が「さみしくなりましたなあ」などと声をかけていくシーンがあるが、妻を無くした直後の人間に対し、あまりにもたんぱくかつ冷淡に感じられる。でも、現実は、特に当時のそれは「あんなもの」だろう。そこらへん、内面の描写や感情の爆発ばっかりが描かれるタイプの濃い味付けの映画とは異なる味わいがあるため、それが大好きな人の気持ちをくすぐるのだろう。
原節子は再婚するのか。再婚しても最終的にはこの家族のような「薄情な関係」を育むことにしかならない。原節子の実の両親はどうなっているのだろう。原節子の実の親への対応はどういう感じなんだろう。一方でセリフもそうだし、キャラもそうだし、わかりやすく説明ばっかしてるのに、他方で「描かれてないこと」が実は相当多いし、その「描かれてないこと」をどうとるかで「家族とは何か」の答えが深遠にも凡庸にもなりうる。そういう作品なんだけど、小津をつかまえて凡庸とか言うような勇気のある人間も少なさそう。
「子どもは成長すると親のことどうでもよくなる」っていう、当たり前のことを説明するのに2時間って映画。でも、その当たり前を知ってるのに忘れたふりして生きているってことを聴衆につきつけ、でも、嫌な感じにはさせないという非常に不思議な味わいがあるので本当にいい映画。でも、退屈。
小津のこと退屈とかつまんないって言ったらバカで無教養みたいだけど、だって退屈じゃんね。観てて何度も意識が飛んだわ。あと芸術的というより相当大衆的。説明が過剰だしキャラクター造形もわざとらしい。【でも】沁みる。おそらくは小津ばっか見てると、小津のリズムに同化してきて小津小津小津!ってなる。そういうタイプの監督なんだろうなと。でも、そうじゃなかったら、人物みんな「ああ」「まあ」「やあ」って言ってから話し始めてるのとか笑うしかないでしょ。「子どもは大きくなると親がどうでもよくなる」とかそんなんみんな知ってる当たり前の真実で、そんなことは「大発見」でもないしね。