成田悠輔の本を読む
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集団自決発言は成田自身がそんなことバカで無意味だと思ってる
ちょっと立ち止まって考えれば、すぐにある疑いが湧く。光陰矢のごとしで明日はわが身、今日の若者は明日の老人である。はるか彼方の未来、たとえば数百年後から見れば、せいぜい数十年しか違いのない今日の若者と老人の差など取るに足らないだろう。とすれば、誰かが「老害は切腹せよ! 打倒シルバー民主主義! もっと若者の声を聴こう」と叫ぶとき、その人は遠くの未来は見ておらず、すぐそこの近くの未来ばかり見ていることになる。「(遠くの)未来を考えていないからこそ、(近くの)未来の声に耳を傾けるべきだと感じる」という逆説に至るのだ。/ 今の日本ではさらなる皮肉が折り重なる。「高齢者はダメ、老害は引退すべき」というのは確かにそうかもしれない。だが、じゃあ若者の意見を汲み取ればそれで良くなるのかというとおそらくそうではない。成田悠輔. 22世紀の民主主義 p.95 結局、若者はすぐ老人になるのだから、天に唾はくようなマネと変わりないと言っている。
若い人の意見を聞いても、若い人自体が自民党支持だし、貧しいので追い詰められていて保守的。つまり、老人を除外したとしても意味がないと成田自身が言っている。 各種メディアで成田自身が自ら愚かだ主張している意見を吹聴してることになる。
成田悠輔は自民支持ではない
成田は保守、右翼だと思っている人もいるが、今の政治は終わってる、変えなければならないと言っているので、自民党に対しては非常に否定的。明示的に「自民党を支持してない」とまでは書いていないが、自民に対してかなりネガティブな言及を繰り返している。成田が夢見ていることは「民主主義を今と異なる形にアップデートすることで自民党だけでなく今の政治を終わらせる」ことなので、すべての政党に対して否定的だが、自民への否定言及は目立つ。
にもかかわらず、たとえば自民党の中核政治家たちの多くがシルバー民主主義的な傾向を持っているのは明らかに見える。2021年の自民党総裁選でいわゆるこども庁(こども家庭庁)の設立が議論に上がった際、高市早苗・衆議院議員が「こども庁を作るなら高齢者庁も作ってほしいという声もある」と真顔でお笑い発言したことなどがその象徴だ。政治家は彼らの頭の中にいる高齢者「イメージ」に忖度しているのだろう。成田悠輔. 22世紀の民主主義p.79 ひょんなことから毎週エラい政治家と話す機会があるが、いつも辛い。動物園で珍しい動物を観察したくらいのノリでそっと退散してしまいたい。成田悠輔. 22世紀の民主主義 p.16 高市や片山など、主に女性議員ばかり取り上げているのが引っかかるが、老人ばかり優遇する、政治家でなくて政治屋でしかない連中のことを嫌っている。
成田は再起不能になるまで燃やしてもらうことを望んでいる
この本も炎上するのではないかと内心ビクビクしながら書いている。燃やすなら再起不能なところまで徹底的にお願いしたい。成田悠輔. 22世紀の民主主義 p.91 ビクビクしているというのは意外と小心者なのかーと思いつつ、でもご本人もそれを望んでらっしゃるので「再起不能」になるまで燃やしてあげるのがご本人の希望通りですので。政府広報やチューハイのCMには二度と使われなくなるくらいは少なくとも、成田の希望を超えているとはいえなさそう。
何が多くの人を惹きつけるのか
読んでわかったのだけど、次のような消極的自民支持の人の気持ちに深く共感しそこに理解を示しているところが、まずはウケている最大の理由だろう。 消極的自民支持の信念群
選挙は嫌だ。選びたくない。
どれを選んでも社会はよくならない。
社会をよくしたいという気持ちはある。
投票しないことにうしろめたさを感じている。
投票する場合は消極的に自民を支持している。
自民党だって問題だらけなことは知らないわけではない。
が、以上の信念が相互に矛盾しているので相対的に自民党を否定的に肯定してしまう。(野党よりはマシ、という形で)
そして、こういう人たちに対して、選挙じゃ何も変わらない、民主主義を改良するだけでもダメ、大事なのは民主主義のアップデートだという形で、その直感や選択行動を合理化する理屈を提供してくれる。
選挙なしの民主主義の形として提案したいのは「無意識民主主義」だ。センサー民主主義やデータ民主主義、そしてアルゴリズム民主主義と言ってもいい。これは数十年をかけて22世紀に向けた時間軸で取り組む運動だ。成田悠輔. 22世紀の民主主義pp.137-138 他方で成田の言うことを愚直に信奉すれば、世の中がよくなるどころか、現状肯定にしかならなくなる。成田の提言は仮に正しいものだとしても、著書名=22世紀の民主主義の通り、長期的な展望でしかなく、現状に対しては「選挙に行っても変わらない」=選挙に行くなと言ってるようなものだからだ。
選挙に行かない、行っても何も変わらないと無党派層が信じてそのように行動してくれればくれるほど、基本的な支持基盤が盤石な政党が勝ち続ける。だから、成田は自民党に対して批判的なのに、政府は成田を広報に利用する。無党派層が選挙に行かず、野党に投票しなくなればラッキーだし、成田を採用することで、成田の理想の民主主義に対して最も乗り気なのは自民党なのではないかと錯覚させることもできるからだ。
なんのことはない。要するにやっぱり選挙で、投票行動で社会は、世界は変わるのだ。そのことを政府が、自民党自身がよくわかっているからこうなるのである。わかってない(フリをしている)のは成田とその支持者だけだ。
成田の言う通り、選挙で何も変わらないのであれば、成田の言う通りの世の中の実現も選挙では達成不可能なのだが、その選挙が現状、議員決定の最も重要なメカニズムなのだから、「成田の言う通りだとすると成田の言うように世界は変わらない」ことになってしまう。
成田を批判するリベラルが成田から学ぶべきこと
成田の本が「グッとくる」のは上で挙げたような、消極的自民支持の人たちの気持ちを理解し、代弁するところから本を描き始めているからだ。同じことをリベラルができているだろうか。できていない。最初から「でも選挙は大事なんです!」「投票して!」「自民や公明はダメ!維新もダメ!」と自分の意見をメッセージとして押し付けているだけだから、最初から拒否されてしまう。 むしろ相手の気持ちを理解するところから伝えるべきだ。実際、日本国民は一度民主党への政権交代を実現している。そしてその結果、民主党が醜態を晒し、安倍長期政権を産んでしまい、日本は下り坂を転げ落ちていった。まともな政治感覚の持ち主ならこの時点で「政権交代は現状では失敗可能性の非常に高い劇薬でしかない」と信じるのは至極真っ当なことだと言える。 相手のそうした「信念群」を想定した上で、そこに理解と共感を示し、その上で「では選挙は無意味かというと、そうならいいけど、実はそうではない」ということを伝え、「消極的自民支持をもう少しだけ消極的にしていく」ことを訴えていくべきだ。