性的消費で傷つかない女性はいない
『キネマ旬報』読んでいたら、斎藤環さんの『アノーラ』評があり、「性的に消費されても傷一つ負わず」「性的消費でも傷つかない女性が存在するはずだ」という男の願いは「幻想」であって、「性的消費に耐えられる人は存在しない」と書いてあった。その幻想は「万能の母」願望に近い、とも。まぁ、風俗嬢やAV女優についての調査や当事者の書いた本を読んでも、そうですよね。しかし、そうでないと考える向きがこれほど社会にあるのはなぜか。そこには、幻想や、売り手も加担する「宣伝」、罪悪感を否認するための都合のいい言い訳を求める心理が関係しているんでしょうか 不同意性交やハラスメントや性暴力で負ったダメージやトラウマについての本を読んで、その深刻さや長さを知るにつけ、ふと「性産業に従事している人たちもそのような深刻なダメージを負っていると思われるが、どうしてこれは問題化されないんだろうな」と思ったりもしました。https://x.com/naoya_fujita/status/1914107387113541939 「性的消費」の定義にもよるが、「存在しない」と言い切れるのはなぜか。データあるならいいが、なくて男性が全称命題でこれを主張することもまた別の問題なのではないか。(傷つかないんだと言われてきたことを問題にする文脈での主張だとは思うが)
客観的なデータもないのに「女性は全員こうである」(正確には「人は」とのことだが)と全称命題で男性が語れること自体が、それこそ逆に男性の「こうであってほしい」という妄想というか、自分の意見からズレる女性は「女性」ではないという勝手なジャッジであり、そこに巧妙な権力を見てしまう懸念もあって。
性的消費とはそういうものなのだということであれば「傷つかない人はいない」というのはトリビアルな命題になってしまうし。
言いたいことはわかるのだけど、ここらへんのこういう物言い、そして知らぬ間になぜか一方的に斎藤環のほうが対象に対して絶対的な診断をする立場になっている。そういうところが自分は斎藤環を警戒してしまう、絶賛称揚するの危険だなと感じるポイントだったりする。